第11話 楽しくて仕方がない



 アトリエのドアの鍵は、図書館と同様にかかってはいなかった。


 この場所も、以前と変わった様子はなく、違和感もない。

 

 私がついこの前まで使っていた場所と何も違わない。完全にそのままの場所。


 そして、相変わらず誰もいない。


 そのガランとした部屋は、閑散とした雰囲気というよりも開放感があった。

 

 思う存分、自分の描きたいように絵を描かけるんだ。

 大学に行かなくなったと同時に絵を描くことも辞めていた私には、絵の具の油がかった匂いが懐かしかった。


 

 私が授業で使用していた木の椅子とキャンバスを立てかける板は、そのままそこにあった。そして、そこに真っ白なキャンバスが置かれていて。

 まるで、ここに絵を描いてくださいとでも言うように。



 私は、音楽で使う譜面台を三脚板の隣に引っ張っていき、借りてきた本のさっきのページを開いた。


 これで準備は完了だ。



『ねえ、凛さん。本当にいいの? 散々わがままを言ってしまって今更かもしれないけど……』



 優さんが渋るようにそっと言った。

 私はそんな彼の珍しい様子に驚きながら、大丈夫ですよ、という意味を込めて笑った。



「むしろ、描かせてください」



 そう言いながら、私は燃えていた。


 誰かのために絵を描くこと。

 

 【誰かのために何かをすること】。



 ずっとしていなかったような気がする。



 家にずっと引き篭もって、布団をかぶって、何も考えないことが一番いいことだと思って、現実から目を背けて。


 自分の殻に閉じこもって誰とも関わらなかった。そうやって自己完結していた。



 そんな私が、今、優さんのために一枚の絵を描こうとしている。


 それが、とてつもなく嬉しいんだ。





 そして、筆を持って、その感覚の懐かしさに手が震えた。

 

 そうだ。私は絵を描くために大学に入ったんだ。


 私が高校のときに焦がれてやまなかった事。

 

 中学までは一切やっていなかった勉強をして、偏差値も上げて、念願の芸大に入った。


 そこまでして、私がしたかったことは、「絵を描くこと」。


 人が怖くて出来なくなってしまっていたけど、見失っていたけど、これが私のやりたいことなんだ。



 筆をキャンバスに滑らせていく感覚。

 絵の具を混ぜ、色を作っていく感覚。

 細部まで対象物を見て、写し取っていく感覚。



 すべてが楽しくて、自分の体が生き生きしていくのがわかる。



 目を背けて、何もかも考えないようにしていたけど、先が見えなかったけど。生きている意味なんてないって思ってたけど。



 それでも、今はこんなに楽しい。楽しくて仕方がない。



 それから、私は夢中で筆を走らせた。

 

 日が暮れていき、窓の外が暗くなっても私は休まなかった。



 私の邪魔をするのを憚っていたのか、それとも優さんも描いていく過程に魅入られていたのか、それまでは何も口にしなかったけれど、時計が7時を回ったころ、流石に心配してくれたのか、彼が声をかけてきた。



『凛さん。少し休憩したほうがいいんじゃないかな』



 それでも、私は筆を動かしたまま応える。



「まだ、描けます」



 夕日が沈み込んでいく境界線を描くのも、海のきらめく色を細かく描くことも楽しくて。


 そして、何より、私が描けるだけの最高のものを優さんに見せてあげたかった。



 彼が私に絵を描いてほしいといったのは、半分は私のためかも知らないけど、純粋に彼のためでもあったのだと思っている。



 だって、優さんはきっと、ほんとは……。



 海を描き終えて、空に取り掛かろうとしたとき、写真を食い入るように見続けていたからか、目がチカチカし始めた。それを優さんも感じたのだろう。本気でストップが入った。



「凛さん。無理しないで、ここでちゃんと休もう」



 そう言われて時計を見やると、時間は既に夜の9時になっていた。空腹すらも忘れていた。



 自分でも、こんなに長時間書き続けていたことにびっくりだ。



 流石に自分でも休んだほうがいいと思って筆を下ろすと、一瞬何かが脳裏をかすめた。



 ……ちょっと待って。



 夢から覚めたような感覚だった。


 というか、そもそも【この世界】自体が夢かもしれないのだが。



 いや、まさに引っかかりはにあった。



 ……もし、そうだとしたら。



「……優さん」




『どうしたの?』

 


 優さんは不安げに私に尋ねてきた。

 私の思いが伝わったのだろうか。


 もう他人とは呼べない片割れに、私は今浮かんだばかりの危惧を口にした。



「もし、?」

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