第5話 上手だね
私の名前を尋ね、「凛さんか。素敵な名前だね」と言った彼は、私に何かしたいことはないかと聞いてきた。
『本当に誰もいないかどうかを確かめないといけないし、出来ればいつもは人通りが多い場所を通れればいいんだけど』
優さんは真相を確かめたくてうずうずしているようだった。落ち着いていた声が弾んでいるのがわかる。
一方で私は、【人通りが多い場所】という言葉に緊張してしまった。
ずっと避けてきた、人がいる場所。
例え、家の近所と同じように人がいないかもしれないと思っても、あの空気や光景を思い浮かべるだけで体が萎縮してしまう。
人の動く音。頭を揺らすような騒音。
込み上げてくる吐き気。キリキリと痛むお腹。
私の異変に気づいたのか、優さんが助け舟を出すようにそっと囁きかけてきた。
『辛いなら無理しなくてもいいよ。凛さんが一番したいと思うことをしよう。折角望んだ世界にいるかもしれないんだから』
まだ多くを知らないのに、優さんは古い頃から私を知っているかのように気遣いの言葉をくれた。
その言葉に安堵を覚え、私は「大丈夫です」という言葉の代わりに、ある場所の名前を彼に告げた。
『カラオケか。僕初めて来たよ』
早速お気に入りの曲を入れて、マイクを持った私に、興奮気味の声で優さんが反応した。
「カラオケ来たことなかったんですか?」
私は驚いて思わず大きな声を出してしまった。その音をマイクが拾い、こぢんまりとしたカラオケボックスいっぱいに反響する。
『うん。カラオケとかそういう俗っぽいところに行くのはやめなさい、って母に言われてたからね』
カラオケが俗っぽい……。
彼と同じ大学生の身としては、その言葉に唖然とするしかなかった。大学生同士の交流の場と言ったら、カラオケと言っても過言ではないと思っていたクチだったから。
同時に、どれだけ優さんのお母さんが優さんの教育に厳しかったのかを垣間見た気がした。
「じゃあ初体験ということで、優さんも曲入れますか? ……あ、でも歌えないか」
自分で言って、デリカシーがなかったと後悔する。今の彼は私と会話はできても、外に自分の声を出すことはできない。それが何故なのかは不明のままだけれど。
「大丈夫だよ。凛さんか歌いたい曲を歌ってよ。歌うのを聞くのも新鮮だしさ」
優さんはおおらかにそう言って、私に歌うように勧めた。ちょうど曲のイントロが流れ始めたところだった。私はその言葉に甘えてマイクを構え直した。
優さんの予想通り、街にも人は見当たらなかった。誰一人として。それだけでなく、駅に近づいているはずなのに、電車の音も聞こえず、踏切も稼働している様子がなかった。店の中にも、客だけでなく店員の姿までもが見当たらず、無人と化していた。駅周辺で一番大きい交差点にも、行き交う人の影はなく、加えて青く点滅し続ける信号機が不気味だった。
誰かが喋る声も、動く音も、人同士が会話する声も聞こえない。
私が気を病んで仕方なかった音の全てが、街中から消えていた。
雑音を遮るためにと思って耳に装着していたイヤホンを外すと、聞こえてくるのは所々に植えられた木々がざわめく音だけだった。
本当に私たちだけしかいないのだ。
そう体中で実感した。
肌で感じる街の空気は、早朝五時のものに似ていた。けれど、それよりももっと静かで、建物すべてが寝静まり息を止めているような静けさだった。
でも、家を出る前に装備した腕時計の針は午後を過ぎていて。
時間感覚が狂いそうな光景と、空間だった。
けれど一方で、心は開放感に満たされていた。
私を見る人はいない。
私の動作を見て咎める人も、気分を害する人も、迷惑を被る人もいない。
何をしても、何も言われない。口を出されることがない。
それに気付いて、自分はひどく自由なのだと感じた。
そして、それは心の中にいる彼も同じだったようで、
『静かだね』
と、耳を澄ませるようにしみじみと呟いていた。
一曲目が終わった。久しぶりに歌うため、喉の調子が心配だったけれど、心の開放感のせいか、いつもよりも声が通っているような感じがする。
脳内ですごいね、と声がした。
『凛さん上手だね。プロの歌を聴いてるみたいだったよ』
お世辞かもしれないと思っても顔がニヤけてしまう。自分が歌いやすかったと思っていれば尚更。
「ありがとうございます。あ、優さんが歌えないなら、私が優さんの好きな曲を歌いますよ。リクエストありますか?」
『え、いいの? そしたら』
彼が迷いながら選んだ曲は、私も知っている男性アーティストのバラード曲だった。
ふと、優さんが歌うところを想像してしまった。ほとんど何も知らないけど、彼ならきっとこの曲を丁寧に歌うんだろうな、と思った。聴いてみたかった、とも。
彼がリクエストした曲を歌いながら、意識は優さんへと向いていた。
優さんは、どうして【独りになりたい】と願ったんだろう。私のように、人が怖くて、独りになりたいと思ったんだろうか。
彼は優しい。名が体を表していると思うほどに。
時間で言えば二時間ほどしかまだ接していないけど、それでも言葉の節々にその優しさが表れているのは分かる。
それに、事実を組み立てる頭の良さも、さっきの会話からして相当だと踏んでいた。
人を思いやれる優しさも、知恵や頭脳だってあるのに。
人に好かれることはあっても嫌われることはなさそうなのに。
どうして【独りになりたい】と思ってしまったんだろう。
彼のことを知りたいと思った。
けれど、誰かのことを知るには、自分のことも教えなければならない。それは20年間生きてきた中で悟った。名前を聞けば自分も名乗らなければならないように、質問をすればそれと同じ質問が返ってくる。
それは、怖い。
自分の状態のことも。何を思っているかも。
知られることが怖い。
私は、人に知られたくないと思うほどに、自分に自信がないんだ。
その事実に一瞬凹んだが、イントロの勢いにそんな憂鬱はかき消されて埋もれていった。
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