第7話 なんで私なの?
私の大学は自転車で行ける場所にある。
だから、一旦家に戻って物置に置いてあった自転車を引っ張り出し、重い脚でペダルを踏み出した。
つい最近まで毎日通っていた通学路を突き進んでいく。
揺れる木々も、アスファルトの感覚も、緑色のフェンスも、坂の傾斜も、懐かしいと同時に辛くなる。
ペダルを一漕ぎするたびに、大学に入学してからの記憶が蘇ってきた。
初めてパンプスを履いて、この坂を上り、靴連れしたこと。
蒸し暑い夏、通学中に汗をかいて気持ち悪いまま、講義に出たこと。
寒い冬、白い息を吐きながら、暖房のきいた教室に早く行きたいと切実に思ったこと。
断片的に、でも鮮明に思い出される通学の思い出。
でも、いつからか、この道を通ることが苦痛になっていた。大学に近づいていくに連れて、息が詰まり、心臓を鷲掴みにされるような苦しさが増し、気づいたらこの道を通れなくなっていた。
何が原因なのか分からない。人が怖いからなのか。それとも別の原因があるのか。何もかもが不明のまま、大学という場所は、私にとって、踏み入れることのできない要塞のような存在になってしまった。
でも、私は、今、その場所へ向かっている。
【この世界】と【もとの世界】の時間軸が同じであれば、今は大学に入学して二年目の春。春先の穏やかな風が、前髪をバサバサと揺らし、露わになった額を撫でていく。
怖くないわけではなかった。実を言うと、さっきから手が震えている。息が荒いのも、きっと坂道を漕いでいるからだけではない。心臓もバクバクだ。それでも、私は進み続ける。
私の中にいるはずの優さんは、さっきからずっと黙ったままだ。その沈黙が有難かった。今は、一人でこの気持ちと向き合いたい気分だったから。
大学のキャンパスが見えてきた。白い四角い建物。
私の心臓は、大きく脈打った。
キャンパス内の駐輪場に自転車を止め、建物へと近づいていく。
校舎の中は静かだった。平日であるはずの今日に、人がいないということの異常さ。
やっぱり、ここにも、人はいないんだ。
自分が【望んだ世界】の実態を再確認しながら、廊下を歩く。
側面にいくつものドアがあって、その逆側面には光を取り入れるための窓がついている。
友達と何度も通った廊下だ。他愛もないおしゃべりをして、授業が開講される教室に向かって何度も行き来した。
でも、いつの日からか、この廊下で人とすれ違うたびにびくびくして、肩を縮こませて、道の隅を通るようになった。
でも今は、誰もいない。
そう認めると、何故か胸が詰まった。
その感覚を誤魔化したくて、私は、肩で空気を切るように廊下の真ん中を歩いた。
私が向かっていたのは、学部生全員が収容できる、キャンパス内で一番大きな講堂だった。そのドアの前に着くと、ずしんと足が重くなった。大きなドアが、まるで関門のように立ち塞がっている。
脂っこいコロッケをお腹いっぱい食べた後のような、重い感覚が体中に広がってきた。
震える手を押さえ、ドアの手すりを握る。重たい扉を開けると、冷たい空気が吹き込んできた。
講堂の中はがらんとしていた。誰も座っていない。教授もいない。誰もいない。
あまりの静けさに、自分とこの空間の境界線がなくなっていくような感じがした。
自分が分からなくなりそうで、思わずはっと息を漏らす。その音は、天井に設置された窓から差し込んでくる光に染み込んでいった。
私は、一歩一歩を踏みしめ、ずらりと並んだ真っ白な机を眺めた。三人掛けの机と、背もたれについた折り畳み式の椅子が、四列に並んで部屋の奥まで敷き詰められている。
いつもなら、ここにたくさんの生徒がいる。ぎゅうぎゅうに敷き詰められて、皆同じ方向を向いて、教授の話を聞いている。
私は入り口すぐに設置してある机を撫でた、指先に冷たい鉄の感覚が伝わってきた。そこは、私がずっと座り続けていた、定位置の場所。
一年生のころ、私はこの教室の前列に座って教授の話に耳を傾けていた。自分でも生徒の中では熱意があったほうだと思う。
でも、それが、今はこんな状態だ。
人のいる場所では、自分の想い通りに振舞えない。自由を感じない。息が詰まる。
そんな状態で。何が学べる?
「なんで私なの……?」
なんで、人が怖くなってしまったんだ。
なんでそれが私なの?
なんでこんなに苦しまなくちゃいけないの?
なんで……?
心の中で問を投げつけるたびに、ちくりとした棘が突き刺さるような感覚がした。
それでも、呪詛のように、なんで、なんで、と繰り返すことは止められなくて。
自分があまりに惨めで……。
どうしよう、止まらない……。
『凜さん』
穏やかな声に、はっとした。
自分のなかにいるもう一人の存在を思い出した。
その瞬間、頭からサーっと血の気が引いた。
私は、何を思ってた……?
どうして私なんだ、って……なんて、エゴで自分勝手な思いだ……。
それを私は、優さんの前で……。
優しいこの人に、【この世界】に一人しかいない存在に、私の醜さを知られてしまったら。拒絶されたら。
これが夢かもしれないなんて考えは、このとき思い出しもしなくて。
ただただ、脳内にいる少年の反応が怖かった。
でも、彼は私を罵倒も、批難もしなかった。
静かに、風が吹くような声で、彼は私に尋ねかけてきたのだ。
『凜さん、少し僕の話をしてもいい?』
その声が私の頑なだった心を溶かしていった。
雪が溶けて水になっていくように、心の覆いが外されていくような感じがして。
私は、いつの間にかコクリと頷いていた。
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