第30話 独りにしないで



 今夜が山場なのだと、奈都美さんは言った。電話越しの儚い声だった。


 彼女は、私に伝えるべきかどうか迷っていたらしい。

 「でも、あなたには伝えたほうが良いと思って」、と鼻声で奈都美さんは言った。

 

 出張から帰ってきた父に頼み込んで、車を出してもらった。私はキャンバスを抱えて車に乗り込む。

 もう外は暗くなっていて、街灯の光だけが街を照らしていた。


 行き先を病院だと告げると、家に帰ってきたばかりの父は驚いた顔をした。しかし、母は何かを悟ったように、出してあげてと父に促してくれた。

 


 煙草の匂いが微かに残った車内で、私はキャンバスを抱きしめた。

 「私だけじゃ最後まで優を信じきれないかもしれない」奈都美さんが涙声で訴えた言葉が、頭の奥でぐわんぐわんと鳴る。

 優さんのお母さんが吐露したものは、【死】を突き付けるには十分だった。その可能性がある。今までは分かっていたつもりでも、実感が伴っていなかった。でも今は、身体が震えるほどに打ちのめされている。



 父は、後部座席でキャンバスを抱えながら縮こまる私に何も声を掛けなかった。普段から寡黙な人だ。そして、さとい人。

 今は誰かの言葉なんかいらない。受け止める余裕もない。

 ただただ、優さんの【死】が怖かった。


 

 病院に着いて、父と共に夜間出入口から中に入る。救命救急病棟に到着し、昼間もいた無表情の事務員さんに、優さんの名前を告げると、難なく通してくれた。

 ICUにたどり着くと、一番端っこにあったはずのベッドがなくなっていた。


 え、と頭が真っ白になったのもつかの間、



「凜さん」

 


 と私の名前を呼ぶ声がして、振り返ると奈都美さんが立っていた。ハンカチを片手に。泣き腫らした目をしながら。



「奈都美さん」


 

 私は駆け寄って奈都美さんの肩に手を添えた。

 彼女は今にも崩れ落ちそうなほどに儚く見えた。

 その姿に、全身が強張った。

 もしかして――――。



「あの、優さんは………?」



 喉が上手く動かない。痙攣したように引きつっている。

 最悪の可能性が頭に浮かぶ。



「優はこっちよ」



 泣き腫らした奈都美さんが、案内してくれたのは、ICUの隣にある部屋だった。集中治療室と書かれた扉を開け、奈都美さんが私と父を促した。

 中には横たわっている優さんがいた。

 そして、その傍らには、昼間に会った眼鏡をかけたお医者さんがいた。



「……あの、」


 

 最後まで声が出せなくて、震える音は空気の中に消えた。

 優さんの顔を見ることができない。

 でも、そのお医者さんは私の言葉を拾ってくれた。



「生きていますよ」



 ……生きてる……?

 私はそっとベッドへ近づいた。

 優さんの顔が、見える。

 


「まだ予断を許しませんが」



 お医者さんの言葉は耳に入らなかった。

 ただ、目をつむった優さんの表情だけが、くっきりと写った。でも、それも次第にぼやけていく。

 そして、頬が濡れているのに気付いた。


 生きてる。まだ、生きてる。


 そっと手を握ると、暖かい感触が伝わってきて。

柔らかい。暖かい。

 


「信じてあげてくださいね」


 

 正面からお医者さんが言った。私はその人の顔を見た。昼間と変わらない優しそうな表情をしていた。

 


「はい」



 私は涙声で、でもはっきりと答えると、その人は微笑んで、奈都美さんと父に会釈して部屋を出ていった。



 


 私の父と奈都美さんも外へ出て、何かを話しているようだった。事情を聴いているのだろうか。私は本当に何も知らせないまま父をここへ連れてきてしまったから、驚いているだろうな。


 そう思いながらも、私はずっと優さんの手を握っていた。握り返してくれない手は、それでもまだ暖かい。

 

 私は丸椅子に腰かけて、もってきたキャンバスを掲げて眺めた。

 そして、眠っている優さんを見つめながら、静けさの中そっと語りかける。

 


「優さん。またあの絵を描いたの。今度はね、夕日を強調してみた」



返事はない。私の声が霧散して溶ける。

 それでも止めない。



「ちょっと強調しすぎたかなって思うところもあるんだけど。でもね、この夕日は優さんなの」

 


 返事はない。



「【誰もいない世界】なんかに負けない。【いなくなりたい】【死にたい】って気持ちに負けない。そういう優さん」



 またも返事はない。



「ちょっとロマンチスト気味かなぁ。恥ずかしくなってきたよ。今更だよね」



 音はしない。ただ私の喋る声だけがむなしく響く。

 

 【あの世界】ではあんなにたくさん喋ったのに。優しく返してくれたのに。泣いている私を励ましてくれたのに。

 今は、とめどなく流れる涙に「ごめんね」と言ってくれる声もない。優しく癒してくれる言葉もない。



「……返事してよ。優さん」




 【あの世界】で会ったのが最後なんて言わないで。

  

 たくさん約束した。

 カラオケに行こうって。一緒に絵を描こうって。叶うなら、一緒に大学に行こうって。


 一緒に生きたいって。


 約束したのに。

 やりたいことたくさんあるのに。

 

 もう話せなくなるなんて、嫌だよ。


 あなたがいなくなったら、私はどうしたらいい……?

 私は、【この世界】で、生きていけるだろうか? 


 もし優さんが死んだら。生き返らなかったら。

 


 信じるって決めたのに。

 最後まで信じ切るって決めたのに。

 持って行かせないって、決めたのに。

 


 くじけそうだ。

 心が壊れそう。

 

 痛い。痛いよ。


 この痛みは、繋がりが切れることを恐れていた時の痛みだ。

 布団にくるまって、【独りになりたい】と叫んだ時の痛みだ。



 優さんと私の繋がりが、切れる。



 ……そんなのは嫌だ。


 また独りになるのは、嫌だよ。

 

 

 優さんの閉ざされた瞼に、枷が外れた。




「……お願い優さんっ……私を独りにしないでっ……」





 優さんの手に縋りつきながら、声を押し殺して、泣いた。 


 



 

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