第29話 夕日と海
坂道を自転車で一気に駆け下りる。額に当たる風が心地よかった。春の匂い。瑞々しい空気。
【あの世界】で同じ場所を通ったときは感じなかった、澄んだ空気。
あの時は、優さんさえいなくなって、本当に独りになって、空気なんか感じる余裕もなかった。
でも、こうやって肌に当たる風を心地よいと感じることができるのは、【あの世界】から帰ってきたからだけじゃない。
何かが晴れた。目の前が開けた気分に拍車がかかって感じることができている感覚なのかもしれない。
きっとこの学校に戻れる。素直にそう思える自分がいた。
要塞のようだった場所。私のトラウマを植え付けた場所。
でも、それだけじゃないってわかったから。
きっと、また戻れる。戻りたい。
軽い足で自転車を漕いで、家に着く。
玄関を開けると、母がダイニングからひょっこりと顔を出した。
「おかえり」
そう言われて、何故か心が熱くなった。
「ただいま」
そう言えることに、心が弾んだ。「ただいま」と言える相手がいることが嬉しかった。
「お母さん。私やらなくちゃいけないことがあるから、少し部屋にこもるね」
階段を上りながらそう告げると、母は眉を寄せた。
「何? 宿題?」
「まあ、そんなもの。倉庫にイーゼルあったよね?」
そう聞くと、母はそうね……と顎に手を当てた。
「確か倉庫にしまっておいたと思うけど……絵を描くの?」
「うん」
私が頷くと、母はそう、と息を吐いて私を見つめた。
「あまり根詰めすぎないようにね。夕食は? 運ぼうか?」
「お願い。あと、お父さん帰ってきたら教えて」
「了解」
母は苦笑いをするとキッチンへと戻っていった。どこか嬉しそうだったのは気のせいだろうか。
私は二階の倉庫へ向かい、ドアを開けた。ぶわっとほこりが舞って顔にかかり、思わずむせる。
スペースの奥に目をやると、クリーム色の木材が収納ケースから突き出していた。
私は床に転がっている掃除機を跨いで奥へ行き、その木材を掴んで引っ張り出す。
顔を出したのは埃をかぶったイーゼル。私が中学校の頃から使い込んでいるものだ。
学校に行かなくなってから、絵も描かなくなった。学校を思い出させる代物は、イーゼルをはじめとして全て倉庫の中に封印していた。思い出すと辛くなるから。苦々しい過去とともにこんな狭い場所に追いやって。
周りを見渡すと、中学校時代に描いた絵や、パレット、初めて自分でノリを張って作ったキャンバスなどが置いてあった。
「……ごめんね。こんなところに放っておいて」
私はイーゼルを撫でながらポツリと呟いた。
目にした途端、愛着が戻ってくる。
何度も何度もキャンバスを支えては、私と向き合ってくれたイーゼル。
もう一度、使わせてほしい。
もう、見て見ぬふりはしないから。
ちゃんと向き合うから。
絵を描きたいんだ。
頑張っている優さんのために、もう一度あの絵を。
【あの世界】で描いた、優さんが喜んでくれたもの以上の絵を。
それが、今の私にできることだと思うから。
そう心の中で呟いて、息を吸い込んだ。チリチリとした埃が喉に入ってくる。
これ以上、優さんに【独りになりたい】なんて思わせたくない。
【いなくなりたい】とも【死にたい】とも思わせない。
優さんが生きることを諦めないくらい、私は優さんが生き返るって信じる。
【独りになりたい】って思いが、【あの世界】へ導いたように、【生きたい】って思いがきっと優さんを優さんの身体に導く。私はそれを信じる。
絶対、死なせない。
私に何ができる、なんていう自己卑下はしない。
どこまでもしがみついて、足掻いて、優さんを取り戻してやる。
私はイーゼルを抱えて、強い足取りで倉庫を出た。
自分の部屋で、借りてきた本のあのページを開く。
夕日と海の絵。
【あの世界】で、私が優さんのためのに描いたもの。
イーゼルにキャンバスを設置し、パレットに絵の具を出していく。
色を作って筆に乗せ、キャンバスへと走らせる。
そこからはただ描いて描いて描きまくった。
ただただ、優さんに生きていてほしいと思いながら。
【この世界】で、【あの世界】で描いた以上のものを描いてみせる。
絵に込める想いも。
生きていてほしいって願いも。
全部込めて、上書きする。
【あの世界】の私の残像も、【独りになりたい】って思っていた自分も、この絵には残さない。
生きていてほしい。
優さんに生きていてほしい。
生きて優さんに会いたい。
もう一度声が聞きたい。
走る筆が、キャンバスに乗る色が、鮮やかな世界を形作っていく。
オレンジ色に染まる夕日。光差す海。静かな波打ち際。
まるで、海が【あの世界】で、夕日が【今いる世界】のように思えてくる。
海に沈みゆく夕日。暗闇に溶けていく光。
あのとき、どうして優さんがこの絵を選んだのか分かった気がした。
優さんは、この夕日のように、海の底に消えていきたかったのかもしれない。
全ては憶測でしかないけれど、沈みゆく夕日が優さんの魂のように思えてならなかった。
消えさせない。
持っていかせるもんか。
私はその夕日の光を写真のそれよりも強く描く。海全体に光の色を載せる。
闇色の海をオレンジ色の光で満たしていく。
優さんの魂が強く蘇るように。
どれくらい描いていただろうか。海を描き終わって時計を見ると、夜の七時を示していた。
こきこきと頭を動かしながら、乾燥した目を瞑ったその時。
傍らに置いていたスマホが鳴った。
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