26 嵐


 それから、五日が経った。


 バルたちの仕事は滞りなく進んでいる。

 帳簿の内容を明らかにして、シモンに協力した工員たちをこってり絞っている。もちろん、雑巾を絞る、という意味の《絞る》ではない。

 工場のことは少しだけみんなの気持ちを不安にさせたけれど、もともと他人のことに関心のある住人は少ないので、すぐに噂話を耳にすることもなくなった。


 それから、クレアがいくつかのことを明らかにしてくれた。

 ヒスの部屋に残された靴を分析して、たしかにあの火事のとき、病院にいたらしい証拠を手に入れた。

 そして彼が酒浸りになるより前、異常気象で浸水した病院の付属施設の修理に関係して、ヒスが防犯システムの情報を手に入れた可能性があるということも。

 彼が火事に関わっていることは、間違いない。ただ厳しい取り調べにも、ヒスは強情で、「娘に会わせろ」の一点張りだということだ。


 僕はというと、あれから保安官事務所には近づいていない。

 クレアの忠告通りアパートにもどって、主にコーヒーを飲んだり、たまっていた本を読んだりするという大切な仕事をこなしながら、ようやくラクガキを消すための重い腰を上げたところだ。

 白い壁に塗りたくられたペンキを専用のクリーナーで半分ほど落としたところに、クレアがやってきた。

 珍しいことに、電話ではなく本人が直接やってきたのだ。


「ジュリがみつかったわ」


 ソファに腰かけて、彼女は僕が差し出したマグカップを受け取った。

 それを見届けてから、僕は自分用のマグカップにインスタントコーヒーの粉を入れて、湯を注ぐ。

 また、二つマグカップをだそうとして、あわててひとつを棚にもどした。

 でもクレアはなにも言わずに見ていただけだった。


「あなたの言う通りだったわ。郵便屋に聞いたら、何もかもあらいざらい吐いたの」


 通称郵便屋、その正体は中央ブロックに住んでいるひとり暮らしの若者だ。

 彼は、はっきりとした対価がなくても《ある特定の人物》に荷物を運んでくれる。

 扉の前に宛先のない手紙や荷物を置いておけば差出人が誰なのかわからなくても、探偵のところに……つまり僕のところに運んでくる、という厄介な習性をもっているのだ。

 それは仕事の依頼であったり、ときには何かの間違いであったりもする。

 ジュリの手紙を運んできたのも、もちろん彼だ。

 ほんとうに気のいい青年なのだ。

 僕とちがって社交的で、街のみんなが彼のことを知っているし、顔をあわせたら挨拶を欠かさない。

 気さくで明るい性格は、ミルドタウンでは稀少価値がある。


 だから、僕は彼のことが不憫でならない。


 ある日、ドアベルが鳴らされ、彼はいつも通り飄々としたようすで玄関先に現れて、そこで待ち構えていた人物を見て驚愕の表情を浮かべただろう――その哀れな様子が、目蓋に浮かぶからだ。


 何しろ、そこにいたのは、怒りをあらわにしたクレアなのだ。

 彼女はうむを言わさない低い声音で、こう言ったはずだ。


 ジュリはどこなの、と。


 クレアの怒ったときの声は、ライオンのうなり声に似ている。


「配達の帰りに、街をさ迷ってたジュリを見つけたんだそうよ」

「やっぱりね。彼が世話をしてたとか?」

「いいえ、知りあいの老婦人に預けて、面倒を見てもらっていたの。でも、どうして気がついたの? 彼がジュリの居場所を知っているって……」


 クレアに、《郵便屋》のところへとジュリを迎えに行くように助言したのは他ならないこの僕だ。


「簡単だよ。外のラクガキをみたときから……なんとなく、そうなんじゃないかな、という気はしてた」


 クレアは僕の部屋のソファにかけて、僕が淹れたコーヒーを飲みながら、目を丸くした。


 何故彼がジュリの居場所を知っているのか……?


「郵便屋は、あのラクガキを書いた張本人だよ」


 あの日、僕の部屋に郵便屋から、ジュリの書きつけが届いた。

 ラクガキがみつかったのはそのすぐ後だ。

 郵便屋はあのラクガキを目にしていたはずだけど、僕には何も言わずに去った。

 あれを無視して立ち去るのは、いくら記憶喪失者でも、ちょっと常識的とは言えない。郵便屋の性格から考えても不自然だ。

 普通は知らせるはずだ。


「目的がわからなかったから、最初は意表を突かれたけれど……」


 それにいくらなんでも、まさかそんなことをしておいて《バレないだろう》と思ったこと自体が意外過ぎて、それはないだろうと思考を放棄していたところもある。


「ジュリは、銀色の包み紙のキャンディを握りしめていたんですって」


 僕のお気にいりのハーブキャンディのことだろう。

 はっきり言って、美味ではない。

 あれを日常的に好んで食べているのは、この街でも僕くらいのものだ。

 それで、郵便屋は最初、ジュリを僕のところに届けようとしたに違いない。


 でも、クレア曰く、ジュリは僕には会いたがらなかった。むしろ激しく拒否した。


 その理由を、クレアは説明しなかった。

 想像はつく。

 ジュリはアモとミサの家に閉じ込められ、不自由な生活をしていた。その間、ずっと、ダダの血生臭いストーリーと僕の写真ばかりを目にしていたのだから。

 ジュリはそのことを郵便屋に話したんだと思う。


 僕は探偵なんかじゃない。

 本当は殺人鬼なんだと。


 郵便屋はどうするか迷い、結局、ジュリを運ばずにあのラクガキを残した。


《あなたの痛みはどこからやって来るの?》


「彼は、あなたに謝っていたわ」

「何を?」と僕は訊ねる。


 シンプルに、疑問だったからだ。


「あなたのことを少しだけ疑ったことを」


 記憶のない僕を……ダダが犯行をやめた年にやってきた僕を、疑ったことを。

 でもそれは、街の、ほかのみんなも、そうだっただろう……。


 僕は何者なのか?

 そしてどうして、あの嵐の夢をみるのか?


 僕の過去には何も確証がない。

 ちょっとした悪意や思いこみで、すぐにも色づけがされてしまう。

 それが僕の意志じゃなくても。


「郵便屋は、あなたが来たら、すぐにジュリを返すつもりでいたと言ってたわ」

「そうかな……そうではないよね」


 郵便屋が待っていたのは、ミルドタウンの探偵である僕だ。

 ギーの友達で、

 クレアの患者でもあり、

 ハーブキャンディが好きなミモリだ。

 

 でも僕は……。


 いつも自分の過去に脅えている。

 忘れてしまった記憶に、何か恐ろしいものが潜んでいるんじゃないかと。

 ギーの言ったように、自分で自分のことを決められないままでいる。


 だから僕は答えをだすかわりに、クレアにジュリを迎えに行ってもらうように頼んだのだ。過去のある、殺人鬼ではない確かな彼女に。


 でもそれももう、終わりだ。

 終わりが近づいているのを感じる。


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