二つ、選択肢があった。

 ひとつはこのまま何もせずに帰路につく、というもの。

 俺は探偵ではないから、そうしてもべつに問題はないのだ。

 だけど、何となく、相棒に「頼むよ」と言われた気がして、俺は階段を登り、広場まで登って行った。広場にはベンチがひとつと塵箱がひとつ隅に置かれている。

 キャンバスを立て掛けた件の男は、自前の折り畳み椅子に座っていた。

 彼は住民たちからレスと呼ばれている。

 帽子の下には、怠惰な長髪と、髭と、年齢によるしわと、氷のかたまりのような瞳があった。彼はこのあたりでは有名人だ。というのも、あの、手作りリースのことで……彼はちょっとしたトラブルを起こしていた。些細なことだ。

 リースの作り手は、かつてあの派手なイルミネイションの家に住んでいた。

 彼女が住民たちのためにリースを手作りしたとき、レスは彼女に「そんな無駄なことをするな、そんなことをする時間はない」と言いはなったらしい。

 住民たちがリースのお礼にささやかなパーティを催したときも出席しなかった。もともと寡黙な人物で、周囲の住人ともコミュニケーションを取らなかったため、確執は決定的になった。

 俺は彼の隣に行って絵を眺めたが、彼は彫像みたいに微動だにしない。

 キャンバスをやめて町を眺めた。

 思った通り、そこから見えるのは、この住宅地と海だけだ。

 この男は、キャンバスにそれらの冷たい光景を移動させる天才だと思った。


「思うんだけど」と俺は言った。「あんたのその絵は、つまらない絵だな」


 男は髭の下で笑い、筆を下ろした。


「ラクガキをしたのは、あんただろ、レス」

「誰だか知らないが……」

「俺はギー。ミモリの代理だ」

「どうしてそう思う?」

「いや、俺は探偵じゃないから当たってようがいまいが関係ない。違うなら別の人間に訊いてみればいいだけの話なんだ。それに、もし俺がそう質問をしたら、ラクガキをした犯人は嘘をつかないような気がする」

「ふむ」

「ここらへんの家にラクガキがされてるって、それは知ってるよな。俺なりにラクガキをする意味を考えてみたんだ。見当違いなら、忘れてくれ」

「意味とは?」

「まっとうに考えるなら悪戯だ。だけどこのていどの悪戯で喜ぶようなガキは、いない。そもそもガキってものが町にいない。もうひとつ考えたのは何かの目印。泥棒とかさ……。だけど、これはクレヨンじゃ用をなさない。そこで、カレンが言ってたことを思い出して閃いた。カレン……って、わかるよな。彼女、カレンダーみたいだって言っていた。たぶん、それは、ここから町を見下ろすと……アドベント・カレンダーにみえたんだ。カレンの目には、この町のようすが。知ってるだろ? クリスマスまで、毎日、絵に描かれた窓をあけていく、クリスマスのお知らせカレンダーのことだよ」

「それで?」

「つまり、これはミモリを呼びだすための合図なんじゃないかなって思ったのさ。ラクガキが続けば、探偵が呼ばれて、その家を調べる。ラクガキはミモリに窓を開けさせるために描いたんじゃないかなって」


 レスはにこりともせずに椅子の脇に置いたバックパックに手を突っ込むとわざわざ十二色入りのクレヨンを取り出して、こちらに放ってきた。ふたを開けると緑と赤、クリスマスカラーの二色が削れていた。


「やっぱりな。どうしてくれるんだ、ミモリは風邪を引いて寝込んでるんだぞ」

「それは悪いことをしたな。うまくいくとは思っていなかった。で、どうだったんだ? ――あの家に、リースはあったんだろうな?」

「リース? ……あの派手な家の?」

「あのリースは私のものなんだ」


 不可解な言葉だ。

 住民と親しくなるために、美しい猫の皮をかぶり、お利口にしていた俺の姿を見せたいくらいだ。


「あんた、ここの住人たちとは仲が悪いはずだろ」

「それは連中の勝手な思い込みだ。私とセシル……リースの作者は友人だった。おたがい夜明け前の人気のない町を散歩するのが趣味でね」

「ふうん。じゃ、あのリースの件で、言い合いになったのはなんでだ?」

「リースのことを言ったんじゃない。あれはセシルが個人的に抱えていた問題について言ったんだ。そんなことをしている暇はない、ってな。だけど彼女は聞かなかった。残された時間はさほど長く無かった。それなのに周りの人間が呑気に喜んでいるのが気に食わなかった……要するに私は子どもだったんだ」

「どうしてミモリを利用した?」

「セシルは最後のリースを私に贈ると約束した。ただ、それが最後の言葉で、彼女はそのままいなくなってしまった。荷物も残したまま」


 俺はバルガドたちの話を思い出した。


「記憶が戻ったのか……?」

「そうだ。医者たちはしばらくそのことに気がつかなかったが、時間の問題だった。私は彼女が町に残ることができる方策を考えるべきだと思っていたが、セシルは別のことを考えていたようだ。手作りのリースをみんなに配りはじめた。私たちはミルドタウン流というべきか、あまり近所付き合いみたいなことはしなかったんだが、それ以来、このあたりはふしぎと普通の町のようになった」


 レスは話しながらバックパックからスケッチブックを取り出した。

 それに描かれたスケッチが彼の記憶のトリガーになっていることは疑いようもないことだ。

 スケッチブックの中で、照れて、手で半分だけ顔を隠しているセシル。レスの視線から隠れながらも、好奇心に満ちた目でこちらを見つめてくる目元のしわは、思ったよりも若々しい。

 描かれた人物が、紙の上で束の間の人生を楽しんでいるみたいだ。

 それを眺めているレスの表情も柔らかい。

 彼は一瞬の彼女をそこに閉じ込めたのだ。

 ビデオテープよりもずっといい。正確で。


「そっちのは素敵な絵だ。今まで見た中で最高得点に近いよ」

「若造にいわれても嬉しいとは思わんよ」

「続きを話せよ、偏屈じじい」

「ふん。彼女が去ってしまうと、むしょうにその、完成したかどうかもわからないリースがみたくなってな。正直にいうと寂しかったんだ。ただ、私と彼女が友人だったと気づいている住人はいないし、あのことがあって連中は私を気味悪がっている。それで探偵を頼ることにした。依頼を描いたというわけだ。壁や家の扉に。事件に気がついてもらえるように、それでいて、住人たちに余計な不安を抱かせないように」

「どうしてそんなまどろっこしい方法を? みせてくれって頼めばいいじゃないか、ふつうに」


 レスは俺を睨みつけた。


「最近ここに越してきた若い女性のところに俺みたいな人間がやって来て、あのリースは俺のだなんだと言い出したら気分が悪いだろう。俺がしたいのは、そういうことじゃないんだよ。怖がらせたり、嫌がらせをしたり、ということではない。そこに確かにある、ということが大切なんだ」

「リースが?」

「まごころと言ってほしいね」

「ふん。それが、あんたなりの気遣いっていう訳か? ミモリの労力にあわないぞ」

「確かにそうかもしれない。だが、あの坊やは、そんなことには気がついていたはずだ。当然だな、毎日真面目に通って来るもんだから――私はさすがに可哀そうになって、手紙を出したんだ。最後の一日だけ来てくれればいいんだと。セシルの家に目的のものがあるはずだからと。だが、言うことを聞いてはくれなかった。俺は探偵があんな子どもだとは知らなかったが、ミモリが来て、毎日住民たちと話をして、大丈夫ですよ、というと、ふしぎと信じてしまうらしい」


 ミモリらしい。と思った。

 ミモリは気が長い。話をきくのも好きだ。


「――それで、どうだったんだ」と、レス。


「何がだ?」

「リースだよ。どんな形をしていた?」


 俺はそのひと言でレスにひどく腹を立てた。

 レスは自分勝手な奴だ。そしてミモリは、とんでもなく人が良い。

 レスは俺が何か言うたびに、スケッチブックに鉛筆を走らせた。そして事細かに、もっとよく思い出せといった。俺の記憶の中にある銀色のリースを、そこにそっくり移動させようというのだ。

 描いているときの彼は、子どものようだ。カレンダーをめくって、クリスマスプレゼントを心待ちにしている子どもの顔だ。

 レスは最後に、リースに飾る薔薇の品種をきいた。


「品種っていわれてもな。そういう知識はないよ。あんたは詳しいのか?」

「色くらいは覚えているだろう」

「黄色だったかな」

「花の形は?」

「わからない」

「ふん、役に立たない。花の大きさは大きかったか、それとも、小さかったか」


 小さかった、他の家よりは、と答えるとレスは黙ったまま、それ以上は何も聞いてこなかった。


「どうして黙ってるんだ」


 スケッチはもうほとんど完成している。

 彼はやはり天才だ。俺が見たままのリースが、そこに完成しつつあった。

 彼は俺が知らないだけで高名な画家か、それとも、正確な手配書の似顔絵を描く警官だったかもしれない、と思った。

 レスは遠い目をして、言った。


「いま、さよならを言われたんだよ」

「芸術家のいうことは、意味がわからない。なあ、俺はもう帰るよ」

「そうしてくれ。放っていてくれ」


 俺はこれ以上ここにいても無駄だと悟った。

 レスの帽子の下の灰色の瞳は、また、他人を寄せつけないものになっていた。

 それは氷ではなく、溶けだしたしずくのためだった。

 

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