友達

11 友達



 病院を出たとき、僕は胸にスクラップブックを抱えていた。


 どうしてそんなことをしたのか、わからない。

 でもどうしてもそうしたくて、クレアに無理を言って箱の中身を古雑誌と交換してきたのだ。

 自分の行動を悪いことだと思ってはいなかった。

 これはもともと、僕のものだ。

 そして自分が何者なのかということの、大事なヒントなのだ。


 でもその感情は、早々と後悔にかわった。


 ルールをやぶったことを、もしも市政府が知ったら追放処分になるかもしれな

い。あの場に僕を導いたクレアも同じことになるだろう。しかもこんな忌々しくておぞましい紙切れなんかのためにだ。


 大体、僕というやつは、こんなものを持ち出してどうするつもりなんだろう?

 僕は、自分のことを知りたいのだろうか。

 自分が忘れてしまった自分のことを……。いまさら?

 わからない。


 自分が本当は何者なのかを知ることに、どんな意味があるだろう。

 僕はこの街が好きだし、記憶喪失であることに不便は感じていない。

 ここにいる限り、飢えることも病めることもない。

 何不自由なく暮らしていけるんだ。

 たとえ、自分が何者であっても。


 でも……。

 それなのに……。


 僕はコートのポケットに手を入れ、銀紙に包まれたキャンディの袋を取り出した。キャラクターがプリントされたビニールの袋の中には八つ、キャンディが入ってる。

 また、二の倍数だった。

 いつもそうなんだ。

 なんでいつも二の倍数なんだろう。


 それだって「きっとどうでもいい、無意識のしわざに違いない」とそう言って振り捨てればいいだけの話なのに、そうしてはいけない気がするのはなんでだろう……?


 もしかすると、ギーなら、こういうときに気分を軽くしてくれるようなことを言ってくれるかもしれない。ミルドタウンでは吹かない、外の世界の風が、魔法のようなものが暗くふさいだ胸のうちに風穴を開けてくれるかもしれない。

 でもこのスクラップブックを他人にみせるということは、冷たい風の前に深く閉じたコートの前ボタンをすべてはだけてしまうということと同じことだ。

 胸を引き裂いて心臓をとりだしてみせるような、ばかな真似だ。


 細長い一本橋の上で片足立ちをしている案山子みたいに、心が、ぐらぐら揺れていた。

 そんなふうに不安定なまま、ギーとはバスの停留所で落ちあった。

 少しくたびれたような彼の顔を見ると、ほっとして肩から力が抜けた。

 その瞬間までスクラップブックは岩のように重たかったが、それほどでもないと思えた。ただのスクラップブックだ。少し借りているだけ。

 僕たちは食堂に麺料理を食べに行き、帰りがけに真夜中まで開いているコーヒースタンドに立ち寄った。

 目印でもあるまるい黄色いランプの下に白いペンキを塗りたくった小屋がある。

 小さな窓越しに交換券を入れると、まったくこちらの注文に従わない飲み物が出て来るという、ふしぎな店だった。

 手もとしか見えないので、店員が男なのか女なのか、ひとりなのか、何人かで交代しているのかさえ曖昧だ。

 差し出された紙のカップに入っていたのは、暖かいコーヒーにシロップを垂らし、アーモンドクリームとチョコレートソースをかけたものだった。


「誰なのかもわからない人間から何がでてくるかもわからないものを買うなんて、ぞっとする」


 ギーは心の底から《うんざり》といった顔つきで言った。

 僕は、とくべつ彼が疑り深い性格だと思ったことはない。

 ミルドタウンにはミルドタウンなりの、流儀がある。

 きっとほかのどんな街でも同じことだ。


「どこで何を買っても、相手が誰なのかはわからないと思う……。それとも、外では自己紹介をしながら物を売り買いするとか?」

「そうだよ」とギーは真面目な顔で言う。「お互いに身分証を見せ合ってからコーヒーを買うんだ」


 彼の差し入れた交換券は、しょうががたっぷり入ったのホットティーになった。

 そういう段取りを決めたわけじゃないけれど、僕らは大概、顔を合わせるとこうして暖かい飲み物を持ってとぼとぼ歩き、ギーのねぐらまで行って話しこむが多かった。


 僕には話すことが多いんだ。

 なにしろ探偵なのだから……。


 それも自分が何者なのかもしらない探偵だ。

 そして聞き手が少なすぎる。

 友達が少ないというわけじゃないけれど――ただ、口がかたくて、頭がしゃんとしてて、それなりに知的な会話が望める言葉を話す人類となると――認めよう、僕には友達が少ない。少なすぎるほどだ。


 海沿いはとことん冷え込んで、風は頬にひりひりとはりついてくるみたいだった。

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