12
ミルドタウンでは申請さえすれば誰でも無料で部屋を借りることができる。
何しろ使われていない家やアパートが、そこらじゅうに転がっているのだ。
それなのに、ギーは西ブロックにある倉庫街の、未使用倉庫を寝床と決めてかたくなにそこを動こうとはしなかった。
控え目に言って浮浪者同然の生活をしてる。
たぶん、街の人たちは、ギーのことを浮浪者だと思ってるだろう。
控え目さという美徳を取り払ってわざわざ正直にいうならば、僕も最初はそう思ってた。
ギーは住民たちとの付き合いを嫌っているのだ。
もちろんそれがギーという人間なのだから、僕にあれこれ言う権利はない。
でも。彼はもしかして、ミルドタウンが嫌いなのかな……と考えるとき。
たとえばギーがしょうが入りのホットティーではなく、緑いろの瓶のアルコール飲料を口にするようなとき、言葉ではうまく言い表せない、複雑に絡まった心もちがするのも確かだった。
この世界には、ここではない《外側》があるのだ。
世界の外側が。ミルドタウンを取り巻いている広くて遠い世界が。
人々の誰もにきちんとした記憶があって、過去と現在が地続きになっている場所が、確かにあるんだ。
遠いその世界をはるか水平線のむこう側に望みながら、僕らは放置された荷箱に腰かけていた。
何度かスクラップブックのことを言おうかな、という気分になって、でも結局、適切な言葉がみつからずに胸のうちに引っこめた。
ギーはようすが変な事に気がついていると思う。
でも何も訊かないでいてくれる。
そういうタイプなんだ。
彼は僕と同じ記憶喪失者だけど、自分自身というものを持っている。いつどんなときにどう振る舞うかしっかりと決めて、決めたことに従う強さがある。
どんなに風が吹きすさんでも、ギーは平然としているんだ。
物理的にも精神的にも。
少しの言葉で動揺したりあせったりする人に、本心を打ち明けるのはむずかしい。ギーはその点、どんなに冷たい風が吹いていても……そういうことだ。
はっきりと言えば、その強さにあこがれてる。
うらやましいと思うし、尊敬もしている。
荷箱の上には口の開いたキャンディの袋が広げられている。
ギーはそれをひと粒だけ遠慮がちにひろいあげると、顔をしかめて「まあ、悪くない味だ」といつものお世辞を言った。
僕は昨日の夜から、今日の昼にかけての出来事を話題として提供した。
今朝届いた手紙のことや、アパートの落書きやアモとミサの事件についてだ。
ギーは端正な顔を歪め、まずは不思議そうに呟いた。
「DA?」
それを聞くだけでうんざりとした。
「そう。まだ家の前にでかでかと書いてあるはずだから、見に来るといいよ」
「そいつはいい。白いペンキを持って行くよ」
「たぶん、いたずらだと思うんだけど。何のことか知ってるかい?」
「どこかで聞いたことがあるな。待てよ……すぐに思いだせないかもしれない」
「構わないよ、わかったら知らせてほしい。セブンスに会いにいったときにでも」
それでもまじめに考えているギーの横顔をながめているうちに、あることを聞いてみたい気持ちになった。そして素直にそうした。
「ギーはいつから戦場にいたの?」
これは、彼と出会ったときから気になっていたことだった。
「なんだよ、いきなり。十三のときからずっとだよ」
「ごめん、嫌な話だったよね」
「いいや。じつを言うと、いつかミモリとこの話になるんじゃないかって、そういう気はしてたんだ」
ギーは照れ臭そうに鼻の頭をちょっとだけ掻いた。
「セブンスでミモリが言っていた通りさ。外の世界は戦争ばかりで少年兵は普通だった。学校を出してもらえただけまだましなんだ」
「どうしてミルドタウンに来たの?」
「運がよかったんだ。仲間がここに送ってくれた。本当は戻ろうと思ってた……でも、そうなると、死ぬまで兵隊暮らしだっただろうな」
「人を殺したことはあるの? それってどんな気持ち?」
「そうだな、そうしろと言われたらそうしたよ。そういう仕事だから。気持ちって言われてもな」
「命令されたから、人を殺したの?」
ギーは気まずそうに言葉を濁す。
「ミモリ、俺に、人を殺せって命令する人間はここにはいないんだ」
困惑した表情が視界に入って、そして、ようやく自分が間違いをおかしたことに気がついた。
僕は、いつも遅いんだ。
他人の感情が、ときどき読み取れないことがある。
ひどく心が冷たい人間のようにふるまってしまうんだ。
僕は彼を傷つけてしまった。
もちろん心の中には、病院に隠されていた僕の過去が横たわっている。
でも、そんなことはギーの知るよしもないことだ。
「ごめん、そういう意味じゃないんだ。君が好きで人殺しなんか……そんな人じゃないってわかってるのに、なんてことを言ってしまったんだろう」
「いいんだ、ミモリ。いいんだよ」
「本当にごめん。いったいどう謝ったらいいかわからないよ」
混乱する僕の前でギーは人差し指を唇に当てて、しーっと、細く息を吐いた。
静かに、の合図だ。それくらいはわかる。
「ミモリは外のことを何も知らない、怖がるのも無理はない。でもミモリは俺の友達だ」
ギーはまっすぐに僕の目を見つめながらそう言った。
いつもなら、すぐに返事ができる。
そのとおりだ。
君を信じているよ、ギー。
友達だと思ってる……。
なのに、一瞬。
あのスクラップブックのことが頭をもたげ、言葉が消えてしまう。
「僕は……ときどき不安になるんだ、自分が何ものかってことすら思い出せないことが……」
言葉にすると、自分の心が切り刻まれるように痛んだ。
それは偽らざる本心で、少しだけ嘘がまじっていた。
「ミモリはミモリさ」
ギーが同意を誘うように笑っている。
でもうまく答えられなかったし、笑顔もぎこちなかった。
それだけで、ギーはまるで魔法みたいに僕の混乱した胸のうちを察したようだった。「間違いない」とだけ短く言って、無視するわけではない、という合図に僕の手の平を二回、軽く叩いて視線を外した。
自分はいま問題を抱えている。
それがはっきりとよくわかった。
そういう夜だった。
反時計回りの路面電車の乗り場まで、ギーは送っていってくれた。
道の先から、闇を切り裂いて近づいてくるライトがみえた。
「本当は、今日は君に提案をしようと思っていたんだ」
「なんだよ、何か問題でもあるのか? してくれよ、ミモリ」
「ありがとう。でも、またにするよ」
ギーは戸惑った表情で、電停に立っていた。
その姿が揺れながら遠ざかっていく。
壊れかけの機械が軋む音をたてるように、問題だけしかなかった。
僕はアパートに戻って、スクラップブックを開いた。
そうしなければよかったのに、そうしてしまった。
永遠にそうしなければよかったのに……。
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