24
実を言うと、病院に行く前に、僕は犯罪をおかした。
ヒスの部屋に忍び込んだ。
ギーはいなかったから、ひとりで。
普通の、いつもの僕なら……面倒くさくなって帰ってしまっていたかもしれない。でもそのときは、いつもとは違う僕だった。いつもとは違う何かに突き動かされて、それで、バルから頼まれたと嘘をついてまで、管理人から鍵を借りたのだった。
ヒスの部屋はアモとミサと同じ西ブロックの寂しい地域にあった。
中に入るとすぐに荒んだ暮らしが目に入った。
板ばりの床に敷きつめられた絨毯はごみで覆われてほとんどの部分が見えない。思ったよりものは少ないが、台所にたくさんの空の酒瓶が並んでいる。戸棚や引き出しは塞がれていて下の方は戸板が打ち付けられていた。
これくらいの飲酒量になると、嗜好品用の交換券が十分にあったとしても、《病院》の指示で酒を買うことはできなくなる。ミルドタウンではアルコールの販売に関しては厳密な取り決めがあり、売るのも買うのも免許が必要なのだ。
きっとヒスは工場の仲間達に頭を下げて酒を手に入れてもらっていたに違いないと想像できた。
仲間ではないけれど、関わってはいたのだ。
僕がクレアに渡したのは、ヒスの部屋にあった彼の服と靴だ。
靴は履き古したスニーカー、服はコットンでできた灰色の寝間着で、ケントルム病院で使われる入院患者用のものだ。僕も一時期、それを着て病院で寝起きしていたからよく知っている。ヒスはアルコール依存の治療で入院していたから持っていても不思議はない。
靴は、工場に行き、シモンを襲撃したときは別のものをはいていたはずだ。
「これを調べてほしいんだ。服は洗濯されているから怪しいけど、靴から界面活性剤の成分が検出されるんじゃないかと思う」
クレアは立ち上がり、ドアや窓をしめ、カーテンを降ろした。
同僚に聞かれたくない話になると察したようだ。
「界面活性剤って、つまり、洗剤の話?」
「いや、消火薬剤だよ。病院の、火事の消火で使われた……スプリンクラーで噴霧された消火薬剤だ。消火薬剤、使ってるよね。玄関がびしょ濡れだった……まさか、ただの水ってことはないよね」
「知らないわ。でもたぶんそう」
「あのとき、僕の靴にも同じものがついた。君のヒールにもね」
「待って。あなたの話は飛躍し過ぎている。ヒスが、この病院に火をつけたっていうの……?」
「話がはやくて助かるよ」
話の流れから、クレアは言いたいことを察知してくれる。
僕は論理的なタイプではないから、そういうところがすごく助かるんだ。
「彼が火をつけて、防犯システムを一時的にダウンさせた。たぶん、そういうことになるって知ってたんだ。それでスプリンクラーを浴びて、靴はどろどろになって不快だったはずだ。だから一旦、自宅にもどって靴を取り換えたんだよ。突然の火災で、現場はパニックだった」
「施錠をしていない一般病棟の入院患者が騒ぎを聞きつけて、野次馬が大勢いたわ。巻きこまれて死者も出た」
「入院着を着て抜け出せば、きっと目立たないね。ヒスが病院の防犯システムのメンテナンスに携わったような記録はない?」
「探してみる。けれど、ヒスに盗みを働く理由はないわ。よりにもよって病院で……。酒でも盗もうとしていたとかなら、理解できなくもないけど」
クレアが気まぐれを起こさなければ、僕も、そう思っただろう。
彼は放火犯になる必要はないって。
「あの建物の地下にはアルコールより大事なものがある。過去の記録だ」
彼女が僕を連れて行った場所。
エレベータを降りたその先に広がっていた地下の空間。
あそこには住民たちの失われた記憶がたくさん詰まっていた。
「記録は揃っているわ……。盗まれたものなんてない」
「そう、だから、盗めなかったんだ。少しだけ当てが外れたんだよ。あそこには入れなかった。防犯システムがダウンしていても……」
「ああ、そうか。ガスね」
クレアは眉間に深い皺を寄せながら、そう言った。
「建物の消火設備は、地上部分は古いものなの。でも、地下は違う。火災がおきたら、空間を密閉して消火のための窒素ガスが充填されることになってるのよ」
僕は頷いた。
火事のあと、建物の地上部分は濡れてめちゃくちゃになっていた。でも、地下はちがう。まったく様子が異なる。
美術館や博物館で採用されている防火システムが、あの空間を守ったからだ。
スプリンクラーで水をまけば、消火はされるが中にあるものは水浸しになる。水にぬれた美術品などは悪くするとカビが生えてしまうだろう。
でも、水のかわりにガスを満たす方法ならば、何も濡らさず、壊すこともない。
消火のあとで排気するだけでいい。
ただし窒素ガスを充満させた室内は酸素濃度が薄まり、人間が一呼吸でもしようものなら、窒息して死んでしまうことになるだろう。それに、ガスが漏れださないよう密閉するが必要があるため、人がいないのを確認した段階で部屋には厳重にロックがかかるような設計になっているはずだ。
「だから、ヒスは何も盗まずに逃げるしかなかった。地下はどうなってるのか、そこまでは知らなかったんだ。火事が起きたのは、何時頃?」
クレアは緊張した面持ちで時刻を告げた。
それはアモたちが死んだ時刻の二時間ほど前のことだった。
「目的が果たせないと知ったヒスは家に戻り、服を着替え、濡れた靴を履き替えた。そして、アモとミサに睡眠薬を飲ませて非常階段から突き落としたんだ」
自分でも、何やら恐ろしいことを言っているな、という自覚がああった。
「服と靴を預かるわ……。盗もうとしていたのは、ヒスの過去の記録かしら」
「いやたぶん、ちがう。僕の記録だ」
「あなたの? さっきから、さっぱり意味がわからないわね」
「僕にもわからない。あんな、新聞記事のかたまりを欲しがる意味なんて。でも意味がある人間が、この街にはいるよね――それがアモとミサなんだよ」
二人は僕の熱烈なファンだった。
どういうわけか、彼らは僕のことを調べ上げ、失った記憶の断片である子ども時代の写真まで持っていた。病院の職員だけが知ってるはずの僕の過去……彼らは知りたかったはずだ。
「アモとミサに、命じられて、ヒスが盗みに入ったということかしら」
「かもしれないね。あるいは、ヒスが二人に知らせたのかも。でも、肝心なものは何も手に入らなかった。だから……」
追いつめられたヒスはチャンスを再び待つなんてことはしなかった。
うまく病院を抜け出したとはいえ、誰かが彼の姿を見たかもしれない。
時間がたてば自分がしたことがばれてしまうかもしれない。
もう二度と、チャンスなんてめぐってこないかもしれない。
「だから、殺した」
クレアは、僕がとうとう狂ったと思っただろう。
僕も自分が正気かどうか自信がない。
でも僕の場合は、記憶喪失になってミルドタウンに来てからずっとなのだ。ずっと自分自身を疑っている。
自分が何者なのかを知らないということは、そういうことなんだ。
ほかのみんなは、何かおかしなことが起きたとき、自分の記憶と照らしあわせる。
そして「こんなことはありえない」と言う。
でも僕には、その記憶が無い。
だから、いつも少しだけ、まわりとピントがずれる。
それをたぶん、狂気というんだろう。
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