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 キッチンには、日記帳のほかに、《郵便屋》が届けてくれた僕あての手紙が広げて置いてある。


 この街の郵便屋は、どちらかというと何でも屋の運送業といった趣で、バイクで運べるあまり重たくないものはだいたいなんでも運んでくる。

 そうして依頼が届くことも少なくない。


 今日の手紙には、ふるえた筆致で、ただひと言、こう書かれていた。


『あなたはだれ?』


 その紙はぐしゃぐしゃに折りたたまれていて、封筒はなく、黒っぽいしみがついていた。

 たどたどしい文字の連なりが、昨日の女の子を思い出させた。

 ピンク色のセーターから突き出た手足は、この文字のようにか細かった。


 あなたは誰?


 さあ……僕は誰だろう?


 それはとても答えにくい質問だ。

 だから、わかりやすいところからはじめよう。


 僕の名前はミモリ。

 好きなものはハーブキャンディ。

 朝食に必ずコーヒーを飲み、ビスケットを二枚食べる。


 ミルドタウンに越してきたのは、ざっと、四年か……それとも、五年か、六年くらいはくらいまえのことだろうか?

 はっきりとはしないが、そんなところだ。


 はっきりしているのは、この街に移り住んだとき、僕はしわひとつないぴんとしたシャツと、すてきな茶色のジャケットを着た、どちらかというと温室育ちの十四歳だったってことだ。


 そして何よりも、ハーブキャンディが好きだった。


 この街でハーブキャンディを手に入れるのは、ちょっと骨が折れる。

 ミルドタウンでは交換券とよばれる代替通貨を採用している。

 食料や日用品は、定期的に市政府から支給される通常の交換券で事足りるのだが、キャンディなどの嗜好品は追加の交換券を使わなければならない。


 そんなわけで、この世間しらずな少年は仕事を必要としていた。


 町役場で斡旋してもらったとき、《探偵》という職業があることに僕はとても驚いたし、感謝もした。探偵に年齢は関係ない。


 こうして、少年はハーブキャンディと引き換えに探偵になった。


 だけど、探偵ではない僕というものについてということになると、とたんに話は複雑になる。


 僕は誰?


 確かなことは、僕の名前はミモリだということ。好きなものはハーブキャンディで、朝食は必ずコーヒーを飲み、ビスケットを二枚食べる。今日は、目玉焼きをつけてもいい気分だ。

 フライパンを探していると、部屋の外から話し声が聴こえてくることに気がついた。


 部屋は、非常階段近くの角部屋だ。

 住民がわざわざ僕の部屋の前で立ち話をするっていうのは、めずらしいことだ。


 マグカップと、ビスケットを崩れないようにそっと持ち、ドアの鍵を外して押し開ける。


 しん、と話し声が静かになった。


 ドアの外に、たぶん、アパートの住人たちがあつまっていた。

 ほとんど全員じゃないだろうか。

 気のせいでなければ、みんな同情的な瞳をこちらに向けている。

 彼らが集まっていたのは、正確には、扉の横。壁の前だった。


「やられたね、ミモリ。たちの悪いいたずらだ」


 と、集まったうちのひとりが言い、僕の肩を叩いてきた。

 部屋から出て、みんなの横に並び、自分の部屋の扉の横の壁をながめた。



『あなたの心の痛みはどこからやって来るの? DA』



 赤いペンキでべっとりと、そう書かれている。

 ためしに触ってみたが、ペンキは少しだけ濡れている。


「どういう意味だい?」


 先ほどの住人が気の毒そうに声をかけてくる。

 僕は首を横にふり、お決まりの文句を口にした。


「さあ、覚えていない」


 それは冗談でもあり、いろんな物事を納得するに足りる唯一の説明でもあったので、住人たちは納得して、三々五々、自宅へ、職場へと去って行った。 


 ここはミルドタウンだ。

 街の人たちは、少し変わりものが多い。

 本はあまり読まない。

 船をみたことがない。


 そして、みんな記憶喪失者だ。

 記憶喪失者だけが、このコミューンに住むことができる。


 例外はない。


 もちろん、この僕も。

 十四歳になるまで、どこで何をしていたのか、自分が何ものなのかを知らない。

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