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《あなたの心の痛みはどこからやって来るの? ――DA》




 痛みってなんだろう。

 いったいなんのことだろう?

 けがもしていないし、病気だというわけでもない。


 少し考えたけれど、その言葉そのものに意味はないのかもしれない。


 いたずら? 悪意はある? それとも、ただの思いつき?


 思いつきで、こんなことをするだろうか。

 そして、最後のアルファベット。

 DAっていうのは署名のようにみえる。

 それとも何かの略字かもしれない。


 しばらく呆然としていたけれど、そうしていても犯人が名乗り出て、公共の場を汚したことについての謝罪を述べることもないのだ……という現実的な問題に気がついた。


 どうにかして片づけをしなければ……高さ二メートルの天井までめいっぱいに書かれたこの真っ赤なペンキの文字を消し、真っ白に戻さなくちゃならない。


 僕自身は必ずしもそうだとは思わないタイプなのだが、常識では、そう考える人が多いににちがいない。


 そのまま、やや小走りで表に出た。


 非常階段を一階まで降りて行き、建物の裏側から管理人室に通じる小さなドアをノックする。


「開いてるよ」


 扉を開くと、管理人の女性がいた。長い髪の毛を緑色のバレッタでとめている。

 彼女は、誰もいない建物の廊下をながめながら、煙草を吸っていた。

 小部屋に煙が立ち込めている。


 こっちを見て「やあ、ミモリ。すてきな寝間着だね」と言った。


 そこで、なんと切り出したものか、まごついた。

 その三秒くらいがよくなかった。


「あのう、四階の……」

「なんだい」

「落書きを見ましたか?」

「ああ、派手にやられていたよね」

「消さなければいけないですよね」

「そうだね。また、こんどでいいよ。忙しいなら……。脚立やバケツは、掃除用具入れにあるから」


 ここで何か言わなければいけないと思いながら、結局、何も言えなかった。


 もしかして、このままだと……。


 脚立に乗って、あの壁にペンキを塗りたくったりすることになるのか?


 こんなに晴れがましい朝なのに一日中、いつひっくり返ってもおかしくない脚立にまたがっているなんて気が狂ってしまいそうな考えだ。


 それで、部屋に戻ると、まずは身支度をした。

 よそ行きのシャツを着てコートを羽織った。

 マフラーを首に巻いて、そして、路面電車に乗った。


 そうすると、ふしぎなことに……。


 アパートの部屋や、もよりの電停といっしょに、面倒ごとも遠ざかっていくのだった。


 これは現実逃避なんかではない。

 そう、つまり、探偵には相棒が必要だ。

 古今東西の推理小説で、そういうふうに書いてある。


 

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