15





 嵐の中にいた。




 膨大な光と音とイメージの大氾濫の中に。

 大音響がたわんで、言葉は意味をなさず、ただの無数の記憶の塊となって存在している。

 そんな嵐が起きると僕は決まって忘れていた記憶の中から最もいやなものを引っ張り出してきてしまう。



 そう、僕は、ここではない場所にいる。



 現実ではないところ……。

 真昼に見る夢。

 妄想と現実の混ざりあったもの。

 狂気に落ちそうな、その一歩手前。


 田舎の一軒家がみえる。

 隣家をみつけるまで何キロも車を走らせなければならないような、そういう田舎によくある家だ。

 背の高い葦に覆われたクリーム色の壁。手入れなどされているはずもない庭に、壊れた電化製品が置き去りにされている。もう誰も使わなくなった汚らしいボールが、雑草と泥の中に隠れている。

 家の中もひどいものだ。キッチンにはありったけの洗っていない食器や鍋が積まれ、何もかも油で汚れている。テーブルにはピザや冷凍食品の食べ残しや、酒の瓶が山のように積まれ、窓という窓にかけられた安っぽいカーテンは埃にまみれ鮮やかさを失って、佇んでいるのだ。

 がらくたのあふれた居間で幼い男の子がテレビを見ている。

 優しい茶色のやわらかそうな髪の毛をした坊や。

 テレビの光がちかちかと坊やの顔を照らしている。


『Who are you?』


 坊やが不意に立ちあがり、裏口へ歩いて行く。

 背の高い葦をかきわけていくと小さな池に出る。

 池のふちにぼろぼろのボートがやっとのことで浮かんでいる。


『Where does the pain of your heart come from? DA』


 坊やはボートの中を覗きみる。

 ボートの中には先客がある。

 愛らしい女の子。顔も手も足もこんなに小さくて、その三つ編みもワンピースも、体内からあふれだしてきた体液でどろどろに、真っ赤に染まっている。

 そこにあるのは血みどろの女の子の死体だった。


 ヘンゼルとグレーテルは……。


 どうなったんだっけ……?





*****




「DNA鑑定の結果が出たわ……あら、顔色が悪いわ。ちょっと、大丈夫?」


 クレアの診察室で目を覚ました僕は自分でも驚くほど汗をかき、心臓が早鐘のように鳴っていた。

 ゆっくりと時間をかけて自分がなぜここにいるのかを考える。

 病院に来たのはクレアが未提出の日記についてこれ以上待てないと言ってきたからだ。それで、出かけて来た。

 面会の途中で彼女は少しだけ席を外して、ふいに眠気を覚えた。

 その先が思い出せない。

 眠りこんでしまったのだろう。よくなかった。

 時計を見るかぎり、ほんの、まだほんの十五分まえのことだ。

 クレアの言う通りひどく青い顔をしていたんだろう。彼女は僕の手をとって、脈をはかりはじめた。脈はあるのかな、もしかしたらもう死んでいて、ゾンビになっているのかも。


「ソファに移動しましょう。さあ、肩を貸してあげる」

「大丈夫だよ、少し夢見が悪かっただけ……」

「どんな夢?」

「いつもの縁起の悪い夢だよ」


 それだけ言うと、クレアは承知した。

 僕は、体調が悪いとか、何か衝撃の強い場面を目にしたとか、落ちこんだりとか……精神が不安定な状態にあるとき、決まってあるひとつの場面を夢に見る。

 クリーム色をした田舎の一軒家。裏に池のある……。

 それが、脳の細胞のどこかにこびりついて離れず、変わらない風景画となって夢のなかに現れるのだった。

 呼吸が落ちついてくるとクレアは真剣な表情で僕に訊ねた。


「ねえ、あなた、まさか記憶が戻ったってことはないわよね?」

「どうして?」

「違うならいいのよ。でももしそうなら友人として忠告するわ。もう一度忘れたほうがいい」

「ミルドタウンから追い出されてしまうから?」

「そう……そうよ……」


 血の気のうせた僕の手を握る彼女の手に、力がこもった。

 ミルドタウンは記憶喪失者の街だ。

 例外はない。正しく記憶があるものは、クレアたちのような例外をのぞいて、ここにはいられなくなる。


 窓の外に目をやった。

 光がぶれてみえる。

 まだ少し休んでいた方がいいだろう。


「大丈夫だよ。クレア、ほかのことを話そう。そのうちに気分がよくなると思うんだ。それに……DNA鑑定だって?」


 話の前後がつながらずに戸惑った。


「あなたが調べてほしいといっていた手紙のことよ」


 証拠品よろしくビニールに収納された手紙を裏返しにし、黒ずんだ染みを示す。


「これ、乾いた血液ではないかと思って検査にかけていたの。古いものだし量も少ないから心配だったけど、当たりを引いたわ。この手紙の差出人はジュリね。彼女、みつかったの?」

「バルたちからは何の連絡もないよ。もしできれば……昨日のあの部屋を君にもみせたかったよ。なぜ彼女が僕に手紙を送ったのか、ひと目でわかったはずだから」

「そう、それはよかったわね」


 クレアはちっともそう思っていなさそうな顔つきだ。

 彼女が《入院》という言葉を思い出さないうちに、ここを退散しなければならなさそうだ。


「ギーでもいいわ、彼は察しがいいもの。だれかと一緒にいるのよ」

「わかったよ。気をつける」


 忠告をなんとか引きはがして、僕はセブンスに向かうことにした。



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