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ミモリと暮らす、と提案したとき、クレアは嫌そうな顔をした。
クレア。ケントルム中央病院に勤めるまじめな精神科医は、俺とのカウンセリングのときだけは煙草を吸うことが許されると思っている。仕方がない。彼女のふるまいに腹を立てたりはしない。
何故なら彼女のカウンセリングルームに行くのは嫌だと駄々をこねているのは俺で、仕方なくふたりとも院内の喫煙スペースにいるのだから。
「ギー、自分が何を言ってるかわかってるの? あの子は、言ってみれば四歳児よ」
この街に来てから知りあったミモリという人間は、ミルドタウンに住む探偵だ。
探偵の、友人だ。
彼は街に来る前のすべての記憶を失っている。
これは、考えようによっては俺よりもずっと深刻な状態だ。あるのはミルドタウンに移ってから四年分の記憶だけ。それっぽっちの記憶のストックで生きて行くことがどんなことか考えてみればいい。
ある人は赤ん坊には何も無いというかもしれない。
でも赤ん坊は十八歳の少年とはちがう。ミモリは十八歳の少年だった。
「わかってるよ」
「どういうつもりなの?」
「かわいいミモリに傷をつけるつもり? ってこと? それはない」
「それならいいのよ」と、クレアはなかば本気で言っていたと思う。
彼女は、コーヒーを右手でかき混ぜるのか左手で混ぜるのか、そんなことまで忘れていたのに、よく回復したものだ……ミモリは貴重な症例だ、とでも考えているに違いないからだ。
「でも、そうね。わからないわ、それっていいことなのかしら」
「俺に聞くなよ、立場が逆だ」
「不安定だわ。大きな事件があった後でしょ」
「大きな事件って? ……ああ、あれか。ジュリの……」
「あなたにとっては、そんなものでしょうけど。ミルドタウンがあんな事件に巻き込まれたのは私の知る限りはじめて」
「ミモリは平気そうな顔をしてたぜ」
「ダメージを実感するのが遅いだけよ。ミモリは基本的にひとりでいたほうがいいと思っているわ。その証拠に病院にいたときはちっとも回復しなかった。彼の場合、ひとりのほうが安定して、かえって物事を深く考えられるようになるのよ」
それは少し違うんじゃないかな、と俺は思ったが、口には出さない。彼女は高度な信頼を求めるが、同時に俺を試してもいる。ときどきは試験をやりすごさなければやっていけない。とくに試験問題が悪かったときだ。
友達に関するテストなんて受けたくない。
もしその試験の成績が悪かったとしても、彼女に謝罪して追試の申し込みをするのは馬鹿げたことだ。
「とにかく……ミモリの言う通り、冬の間だけ、まずはお試しってやつだよ」と俺は言った。
「恋人みたいに言わないで」とクレア。
「部屋をシェアするだけさ」
「最初からそう言って」
彼女は白い手の平を差し出した。
「日記」
彼女の手の平に、渋い緑色のノートを乗せる。
「あなたの日記は嘘ばかり。とても薄っぺらい」
「たまたま、利き手が風邪を引いていて……」
「あとでお見舞いに行くわ」
「俺の?」
「ミモリのよ」
そうだった。俺は頷いた。いま、ミモリは風邪を引いている。
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