ミルドタウン

2 ミルドタウン




 朝。

 目が覚めるたびに、ここは楽園なのかな、と思う。


 そうかもしれない。

 ここは楽園なのかも。


 本棚にならんだ本がぐちゃぐちゃになっていても、誰も文句は言わないし……。

 目覚まし時計が壊れて真昼に目覚めても、なんの問題もない。

 くすんだミントグリーンの壁紙を見るたびに、やっぱりそうなんじゃないかなと思う。


 アパートの、がたついた窓を開けると、いつものように海が見えた。

 それから空の鮮やかな青色に、ゆったりと白い雲が、じつに気分が良さそうに流れていく。

 そしてその手前に、ミルドタウンの灰色の街並があった。


 仕事をはじめてからずっと暮らしているアパートは、東ブロックにある。

 路面電車の架線沿いにあるこの建物は古くて、あまり手入れも行き届かず、路面電車が通るたびに外壁に取りつけられた非常階段が危なっかしい悲鳴を上げているようなところだ。

 そして、埠頭をのぞけば、いちばん風が冷たい場所だった。


 ぴゅう、と音がして、ストーブに乗っかったやかんが不躾に呼びつける。

 

 マグカップにコーヒーの粉末を入れ、ストーブからやかんを下ろし、注いで、スプーンで混ぜた。

 土色のドロドロが銀色のスプーンにねばねば絡みつく。

 それとおんなじで、昨日のことが、頭の隅にねばついている。


 冷蔵庫からミルクを取り出して戻ってくると台所にはマグカップが二つ、行儀よく並んでいた。

 考え事をしているときに、よくある癖だ。

 なんでも二つずつ用意してしまう。砂糖と牛乳をたっぷり入れたコーヒー。ビスケットの買い置きも二つ。ポケットに入れておくサンドイッチやチョコレート、キャンディも二の倍数だ……。

 

 テーブルには、青いざらっとした表紙のノートが僕を待ち構えていた。

 それは日記帳で、毎日の記録をつけるものだ。

 毎日、日記をつけることは、ミルドタウン市民のたいせつな義務だった。


 昨日は、埠頭まで行った。用事があって。

 用事のことは書かなくちゃいけないだろうか……。


 さらに湯を足して、かろうじてコーヒーと呼べそうな飲み物を作った。


 再び窓辺にもどったのは、ノートと距離を取りたかったからだ。

 日記のことが好きだという住民は、たぶん、ミルドタウンにはいない。


 目の前の電停に、路面電車がごとごとと音を立ててやって来る。

 電車に乗り込むひとも、降りていく客もいなかった。


 ミルドタウンは周囲を海に囲まれた円形の島、その南半分にある街だ。

 ドローンを飛ばしたら、きっと、扇状にひろがった街の姿をみることができるだろう。

 住民の数は公式には十万とされているが、通りを歩く人の量や、空きアパートの数を考えると一万人に達していないのではないか、というのが本音のところだった。

 ここは東南アジアを主な舞台とする泥沼の戦争や、世界的な不況など、憂鬱なニュースから逃れるため、金持ちたちによってつくられた閉鎖型コミューンとは少しだけ毛色が違っている。


 街の人たちは、ずっとこの街だけで暮らしている。

 外の世界を知らないせいか変わりものが多い。

 本をあまり読まない。

 港はあるものの、船をみたことがない……。

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