第25話

 邸宅に足を踏み入れると、そこに広がっていたのは玄関というよりエントランスホールだった。赤い絨毯が真っ直ぐに、正面階段に向かっている。左右にも廊下が続いていて、絨毯以外の部分は大理石で占められていた。


「どうぞこちらへ」


 邸宅内部の案内役は、メイドさんが務めた。僕の邸宅にいるメイドさんよりも、少し派手な格好だ。

 彼女が僕たちを案内したと言っても、階段を上って右方向に真っ直ぐ行くだけ。その突き当たりが、父の書斎になっている。

 メイドさんはノックの代わりに、インターフォンらしきパネルに掌を押し当て、


「桐山寛様、桑原朋美様、此崎未来様、お連れ致しました」


 とだけ告げた。


《入れ》


 無感情で低い声が響く。

 僕はどっと、自分の肩に重石が載せられるような錯覚に襲われた。ここ二週間ほど、僕の身にはいろんなことが起こった。しかし父の短い声は、そんな僕の多くの経験を粉砕してしまうかのように思われたのだ。


 こんな奴に、心で負けるわけにはいかない。それが実の父や母だったとしても。


 ギイッ、という音がして、重厚な、これまた木製の扉が引き開けられる。真っ先に目に入ったのは、二人の人物の後ろ姿だった。すらっとしてグレーのスーツに身を包んでいるのが父。より黒に近い、スーツとスカートを着用しているのが母だ。窓の外、研究所群の灯りを見つめている。


 僕には見慣れた光景だが、変わっていることが二つある。

 一つ目は、どうして今更、両親と会わなければならないのかという疑問があること。昔から、父の書斎では無暗に口を利いてはならないと躾けられていた。

 二つ目は、カチカチに緊張しきっている人物が同伴しているということだ。もちろんそれは朋美のことである。


 僕は疑問、すなわち『何故今になって僕に会う気になったのか』を問いかけようとした。しかし、先手を打ったのは父だった。振り返り、紫煙を上げる葉巻を口から離しながら尋ねてくる。


「友達はできたのか」


 流石の僕も面食らった。『元気か』とか『久しぶりだな』とか、挨拶程度の言葉が来ると思っていたのだが。よりにもよって『友達はできたのか』とは。要するに、僕が順調に人間関係を築けているかを気にしているらしい。

 実際のところ、二言、三言言葉を交わせる人間はいるが、それだけでは友達とは言えないだろう。

 僕は父の、よく整えられた後頭部を見返しながら、『いいえ』と短く答えた。


 父はゆっくりと振り返り、丸眼鏡の向こうから僕を見た。『睨んだ』というほど感情はこもっていない。やはり無感情だ。『見た』だけだ。しばらく経ってから、父は短い階段を降りた。母も振り返ってついてくる。母が父の執務机の回転ソファを回し、父は何も言わずにそこに腰を下ろす。再び紫煙をくゆらす間があった。


「自覚はあるのか」


『何についての自覚なのか』という愚問を、僕は避けた。もちろん、桐山家の長男として、という自覚だろう。そこから芋づる式に、父が僕に求めることが分かってくる。

 学績優秀であること。高い自己表現力を有すること。そして、優良な跡継ぎを育てていくこと――ひいては、華藤雪乃を生涯の伴侶とすること。


 僕はわざと、『いいえ』と即答した。今度の父の対応は早かった。僕の顔に向かって、火のついた葉巻を投げつけたのだ。僕は半ば予想していたので、さっと葉巻を腕で払いのけた。長袖を着ていたのは幸いだ。

 

「ちょ、ちょっとあんた! 何すんのよ!」


 喚きだした朋美を見て、母はその薄い唇に笑みを浮かべる。無感情な父と違い、露骨に朋美を見下しているのだ。


「口を慎んではいかが? 桑原朋美さん」

「じゃあどうして、あたしをここに連れてきたのよ! 寛に痛い思いをさせてまで……!」


 既に赤くなっていた朋美の顔だが、母もまた一瞬で頬を怒りに染めた。


「寛は私たちの一人っ子、大事な跡取りなのよ! あなたみたいな庶民と結ばれてたまるもんですか!」

「その辺にしておけ」


 そう言って、父はゆっくりと身を乗り出し、肘を机について指を組んだ。その上に髭のない顎を載せる。


「お前の生活費の仕送りを、全面カットする」


 はっと息を飲んだのは朋美だ。母は勝ち誇ったように口元を歪ませている。


「あんたら、それでも親か!」


 僕の代わりに朋美が怒鳴っている。怒りを露わにしてくれている。

 しかし、次に僕を襲ったのは、信じられない言葉だった。


「黙りなさい、下等な人民は」

「ッ!」


 僕は手錠のことなど無視して、母に突進を試みた。僕のことなら構わない。だが、朋美を馬鹿にすることだけは許せなかった。

 一体何と喚いているのか、自分でも分からなかった。しかし、僕は母を突き飛ばそうとしていた。そしてあと一歩というところで、視界がぐるん、と縦に一周した。


「!?」


 軽いローキックを、後ろから喰らわされたのだ。


「がッ!」


 思わず声が出るが、息は詰まる。間違いなく、未来のローキックだった。後頭部は助かったが、背中をしたたかに床に打ちつけた。この蹴りの動きも、計算された軌道を通ってのことだろう。


「次は容赦しないわよ、寛くん」


 絶対零度という言葉を連想させる、冷たい声音。


「未来、やっぱり君は……!」

「ええ。鬼山博士に造られたロボット兵器よ」


 そうだった。先輩が言っていたではないか、未来を造ったのは自分の父親だと。


「今日、ここにお越しの桑原朋美嬢には、しばしこの邸宅で過ごしていただく」


 相変わらず、バリトンボイスで淡々と告げる父。


「どういう意味だ?」


 僕は歯をむき出して、心中の憎しみを総動員して尋ね返した。


「華藤雪乃嬢の体調が快方に向かっている。医師の診断では、来週あたりから中学校に登校できるそうだ。編入先は、梅坂黎明中学校。住まいはお前の家だ」


 はっとした。雪乃は幼いころから病弱で、学校に行けない日々が続いていた。その雪乃が、復学する。梅坂黎明高校と中学校は、名前から分かる通り、隣接して設けられた教育機関だ。そこに雪乃が通い始める。

 しかも、居住先が僕の住んでいる邸宅とは。毎日顔を会わせられるようにと仕組まれたのだろう。


 それに引き換え、朋美をここ、つくば市の本家に置いておくとはどういうことか。考えられる相手の作戦はただ一つ。怖気立つ感覚を覚えながら、俺は思ったことを口にした。


「お前ら、朋美を人質にするつもりか!」


 父はゆっくり、しかし深々と頷いた。


「そんなッ……!」


 僕が俯くと、甲高い笑い声が聞こえてきた。母だ。


「寛、あなたも今後の身の振り方を考えなさいな! 大丈夫よ、あなたの面倒は未来ちゃんが見てくれるから! なぁんにも心配いらないわ!」


 口元に手を当て、おほほほ、と笑い声を上げる。本人はそれが『上品』だと思っているらしい。僕は柄にもなく、その顔に唾を吐きつけてやりたいとさえ思ったが、この体勢では無理だ。

 こうなったら、最後の手段に出るしかない。僕の意志と矜持を見せつけてやる。


「未来、僕を殺せ!」


 その時、ようやく父の顔が歪んだ。目を大きく見開いたのだ。


「命令だ、早くやれ!」


 母は、突然の僕の宣言に悲鳴を上げた。そのまま数歩、後ずさる。ボディガードたちもどうしたらよいか分からずに、両親の顔を交互に見遣っている。

 しかし、未来は冷静さを微塵も揺るがせずにこう言った。


「その命令は聞けないわ、寛くん。ご両親のご意志に反するもの」


 ああ、やはりそうきたか。これでは僕が、余計惨めになるだけだ。


「ほ、ほーらお聞きなさい! あなたが殺されるものですか! あなたは素直に、私たちの言うことに従っていればいいのよ!」


 不安だった反動で、感情が昂っているのだろう。母は笑いが止まらない様子だ。父も先ほどのように、目を細めている。


「未来、二人の手錠を外してやれ」

「かしこまりました」


 未来は腰を折って、深々と頭を下げた。ゆっくりと僕の背後に回り込み、鍵を通して手錠を外す。


「未来、聞いてくれ。これは本当に君の意志なのか? 君はこんなことをやらされて平気なのか?」


 未来は黙り込んだ。しかし、手錠を外す所作に滞りはない。僕から離れると、次は朋美の方へ向かった。

 手錠を外されるや否や、朋美は僕の元へ駆け寄ってきた。これ以上、戦う元気はないらしい。精神的にも。


「寛、あたし、どうなっちゃうの? このまま誘拐されちゃうの?」


 その言葉に、恐ろしい考えが浮かんでしまった。父の権限をもってすれば、朋美を殺してしまうことだって可能なのだ。何の証拠を残すこともなく。


「朋美……」


 僕はそっと朋美の肩を抱き寄せた。


「ごめん、僕の力不足だ」

「で、でも、寛が強くなったら助けに来てくれるよね?」

「……」


 僕はもはや、正面から朋美を見つめることすらできなかった。自分から抱き寄せておきながら。


 珍客が声を上げたのは、まさに僕の涙腺が崩壊する直前のことだった。

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