第9話【第二章】

 三日後。


「よっと……」


 僕はベッドから下りて、二、三回飛び跳ねてみた。うん。身体の調子は悪くない。動きに支障はないようだ。

 使用人たちに朝食や服装の準備を任せる。というか、勝手にやってくれている。

 寝室同様、だだっ広いダイニングに出ると、長テーブルの端に一人分の朝食が置かれていた。今日はスクランブルエッグ。本当は目玉焼きが食べたかったのだが、作ってもらっている以上、わがままは言えまい。


 待てよ。だったら自分で作ればいいじゃないか。いわゆる自炊というやつだ。食べたいものを自分で作る。なんだかわくわくさせられるな。

 だが、問題が二つほど持ち上がってきた。


 一つ目は、やり方が分からない、ということ。突然卵とフライパンを渡されても、僕一人では何をどうしたらいいのかサッパリ見当がつかない。

 そして二つ目は、下手に自分で行動に出ると、失敗した時にどれほどのダメージを被るか分からない、ということだ。三日前、僕は『一人で登校する』という行為に出たために、ボコボコにされて周囲にも心配や迷惑をかけた。その二の舞になるのではないか。誰かに相談したいところだが、


「……」


 やはり、使用人たちに『あまり喋らないように』という要請をしたのは、思いの外ストレスになるようらしい。


 そんなことを考えてながら、僕は朝食を食べ終え、登校用のブレザーを着せられ、髪も整えられて、一糸乱れぬお辞儀に見送られた。

 流石に毎日ロールスロイスで登校するわけにはいかない。僕は両脇を二、三メートル間隔でボディガードに挟まれるようにして歩を進めた。


 通学路の中間地点で、なにやら言い争いをする声が聞こえてきた。これは何だ?


「未来さん! どうしてあんたが寛の通学路にいるの!?」

「だってここ、私の家ですし」

「そ、それはそうだけど! でもなんでこんな朝早くに登校しようとしてるの!?」

「遅刻しないようにするためよ。何か問題があるかしら? 朋美さん」

「え、えっと……」


 僕は我ながら、不思議なものを見る目で二人に視線を遣っていた。桑原朋美vs此崎未来。いつの間にライバル関係になったんだ、この二人は。


「おはよう、二人共」


 仲裁の意味で、僕は声をかけた。先に反応したのは朋美だ。


「あっ、おはよう寛! もう身体は大丈夫?」

「うん。お陰様で」

 

 すると、未来が艶やかな黒髪を流しながら、朋美の背後にやって来た。


「おはよう、寛くん。昨日届けたプリント、役に立った?」

「あ、そうそう! あのプリントがあって本当に助かった。宿題もちゃんと解いて来れたよ。ありがとう、未来」

「どういたしまして」


 こんな会話をしていると、朋美が『ちょっ!』だか『はあ?』だか短く異議を挟もうとしてきた。未来の言葉が一段落したところで、その袖を引っ掴む。

 

「あ、あんたたち、昨日も会ってたの? どこで? 昨日のいつ?」

「下校してからすぐだから、午後五時半くらいね。会ったのは寛くんのお宅。私が帰ったのは午後六時くらいだけれど」

「何を話したのよ?」


 僕は何故、こうまで朋美が未来のことを気にかけているのか測りかねた。蚊帳の外にされたくないのだろうか。


「ちょっと寛!」

「あ、え?」


 気づけば、朋美の矛先はこちらに向いていた。相変わらず、話す時の顔が近い。


「この女と二人で、何をしていたのよ?」

「い、いや、そう詰め寄られても……」

「何? 人前では言えないようなことでも?」

「ちっがーーーう!!」


 僕は思いっきりかぶりを振った。


「プリントを受け取って、赤坂先生からの伝言を受け取っただけだよ!」

「ふぅん?」


 眼球を動かし、『間違いないわね?』と視線だけで未来に確認する朋美。しかし未来はどこ吹く風で、肩を竦めただけ。

 すると朋美は、『はあ……』と大きくため息をついた。まったく不似合いな所作だが、本当にどうしてしまったのだろう。


「朋美、大丈夫? 熱でもあるんじゃない?」


 ふっと隙を突くようにして、僕は朋美の額に手を当てる。すると、


「ひゃん!」


 とやたら艶っぽい声を上げて、朋美は飛び退いた。ほんのり頬が赤くなっている。


「そ、そんなに感染するとまずいのか? 今日は君が休んだ方が」

「あっ、あたしは大丈夫だよ! もう、さっさと行きましょ!」


 僕は右の袖をぐいぐい引かれながら、朋美、僕、未来の順で歩いて行った。


         ※


「おお、桐山くん! もう怪我はいいのかい?」

「桐山くんじゃないか! 今日は皆でお見舞いに行こうと思っていたんだよ」

「身体が大丈夫なら、放課後一緒にお茶でもいかが? 寛くん!」


 教室に入った途端、この騒ぎだ。なるほど、親の七光りとは大したものである。

 両親が世界でも屈指の科学技術者とあっては、これだけ周知されざるを得ないということか。

 流石にため息をつくわけにもいかず、曖昧な笑みを浮かべてみる。きっと頬は上がっているだろうが、目は笑っていないだろう。今僕を囲んでいる、友人『もどき』たちのように。


「ちょっと! 邪魔なんだけど!」

「うわっ!」


 背後から突き飛ばされた。朋美だ。すると波が引くように、さーーーっとクラスメイトたちが距離を取り始めた。僕を押し退けながら、さっさと自分の席、すなわち僕の席の一つ右席に腰を下ろした。どさりと鞄を置き、両腕を後頭部に回して、周囲をつまらなそうに見つめている。


 人間関係に疎い僕でも、これは分かった。この状況は、マズい。

 他者との関係を維持する上で、基本的なこと。それは、相手に無礼を働かないことだ。時間が経ってからはいざ知らず、昨日、一昨日に知り合ったばかりの相手と口を利かないのは、危ないのではないか。友人『もどき』たちから引っ張りだこだった僕が言えたことではないが。


 僕は息を潜め、ちょっと瞬きを遅くして、周囲のざわつきを捉えようとした。が、上手くいかない。誰も喋ろうとしないのだ。

 今現在において、朋美が陰口を叩かれているという確証はない。だが、隠れて語られるのが『陰口』だ。だから、この場で露骨に朋美を責めたり、彼女の嫌味を言ったりする輩がいないのは当然だろう。周囲に筒抜けにもなってしまうし。


 つまるところ、この学校における桑原朋美の人間関係は『よく分からないけど危なっかしい』という言葉に尽きる。


「あら、寛くん、どうかした?」


 ここまで考えていたのは一瞬のことだったらしい。背後から未来の声がした。


「あら此崎さん、おはようございます」

「桐山くんとご一緒でしたのね」

「今日もよろしくお願いしますわ、此崎さん」


『ええ、よろしく』とまとめて返答しながら、未来が僕を追い抜いて自分の席へと向かっていく。彼女に関しては、特に異様な雰囲気が生じることはなかった。


 僕は自分の席に近づきながら、小さく呟いた。


「朋美、大丈夫かな……」

「おっと、お悩みかい? 桐山くん」

「え? あ」


 突然、横合いから声をかけられた。そちらに振り向くと、やたらと目つきの鋭い男子生徒が立っていた。口の端を吊り上げて、親し気にポンポンと肩を叩いてくる。


「桑原朋美さんのことが気になっているんだろう?」

「い、いやいやいや! その、気になってるわけじゃ……」

「ああ、もちろん『恋愛対象として』という意味じゃないよ。幼馴染としては、確かに心配だよね?」


 ぼくはぎょっとして目を見開いた。同時に椅子から立ち上がる。


「どうしてそれを……」


 すると、男子生徒は僕の肩を抱くようにして人混みから遠ざかった。


「心配しないで。僕の父親は政府官僚の端くれでね。きちんと情報管理ができる人間だから、下手に言いふらしはしないよ」


 そのくせ息子には話しておいたのか? 信用ならない官僚がいたものだ。それはそれとして、今は朋美のことだ。


「そ、それで、とも……桑原さんがどうしたって?」

「彼女、あの態度だろう?」


 くいっと顎をしゃくってみせる男子生徒。その向こうでは、朋美が机に脚を載せ、腕を組んでふんぞり返っていた。確かにあれでは、誰も声をかけようとはしないだろう。


「彼女の両親は、建築士に菓子屋の店長だ。大した出世頭じゃない」

「それがどうしたんだ?」


 じわり、と怒りを込めながら僕は問うた。


「まあ落ち着いて聞いてくれ。彼女には、僕や桐山くんのように、バックボーンになるほどの両親がいない。ということは、この高校に入れたといっても、将来の指針がないのと同義だ。彼女が遠巻きにされるわけだよ」


 ということは。


「やっぱり皆、自分の将来に役立つかどうかで友達を選んでいるのか?」

「それ以外に友達を作る意味があるのかい?」


 僕は視界が真っ暗になるような錯覚に襲われた。

 朋美とは、小さい頃から自然と言葉を交わし、気が合うことを確かめながら生活してきた。それが今、例えば目前にいる男子生徒はなんだ? 露骨に『お前を利用してやる』と言っているようなものではないか。


「僕は部活で、電気回路開発をしているんだ。興味はあるかい? 桐山くん」

「……」

「桐山くん?」

「あ、ああ。少し考えさせてもらえるかな」

「もちろんだとも! 前向きな返事を待っているよ」


 颯爽と別グループに合流していく男子生徒。僕もまた、大きなため息をつく羽目になった。

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