第10話
僕は眉間に手を遣った。もう一つの懸念事項が接近中であることにも気づかずに。
「ん? 何だ?」
「何? 自転車?」
廊下側の生徒が騒ぎ始める。待てよ。このタイミングで自転車って、まさか……。
「チックショウ、出遅れたぜ! 俺としたことが!」
ガチャン、と自転車を乗り捨てながら一年四組の前にやって来たのは、鬼山先輩だった。やっぱりというか、案の定というか。
「おい寛!」
「何やってんですか、鬼山先輩」
答えもせずに、ずかずかと踏み入って来る先輩。いい人なのは分かっているけれど、それは僕が知り合いだからであって、一般生徒から見れば突然の不良の再来だ。今回はバイク音を鳴らさずに来ただけマシかもしれないが。
先輩は『おい寛!』と繰り返してから胸倉を掴み上げてきた。
「お前なあ、今日こそ例のあの子を紹介してもらうぞ!」
「何をなさっているんですか?」
「ああん? 俺はこいつの先輩で、ちょっくら話が――って、ひい!」
僕はすとん、と床に落とされた。先輩はと言えば、『何をなさっているんですか?』という声の主、未来の前で腰を抜かしている。
「寛くんに暴力行為は許しませんよ、鬼山浩紀先輩」
「す、すす、すまない、どうしてもこいつに、じゃない! 君に用事があってね」
「私に?」
警戒態勢に入っていた未来の肩が僅かに緩む。
先輩は立ち上がって埃(なんてなかったけれど)を払う仕草をしてから、すっくと背を伸ばして立ち上がった。未来よりも頭一つ大きい先輩は、学ランのポケットからチケットのようなものを取り出す。そして、身体を九十度に折って、叫んだ。
「お、俺と一緒に市民プールに行きましょう!」
居合わせた全員が、呆気に取られた。どんな告白だよ、これ。いや、告白をすっ飛ばしてデートの誘いだよ。
しかし、僕たち後輩の受けているショックを無視して、先輩は頭を下げ続ける。彫像のように固まった先輩を前に、同じく固まっていた未来は、たった一言。
「お断りします」
「ぎゃあああああああ!!」
先輩は腰を折ったまま、チケットをくしゃくしゃに丸め、床に投げつけた。そのままひれ伏し、床をドンドンと叩き始める。
ううむ、この異様な場は誰かが収めておかねばなるまい。僕の出番、か。
「どうして駄目なんだい、未来? せめて理由を説明してあげた方がいいと思うよ」
「だって先輩のお誘いに乗ったら、寛くんをほったらかしにすることになっちゃうじゃない」
「ぐぼはあああああああ!!」
先輩は、今度は机に手を着き、ガタン! という音と共に崩れた。僕としたことが、状況悪化を招いてしまったか。
「朋美、先輩は僕の手には負えないよ。どうにか――」
「乗ったあああ!」
バチンと膝を打って声を上げたのは、その朋美だった。
「な、ど、どうしたの?」
「此崎未来! あなた、あたしと競泳勝負しなさい!」
ビシッ! と未来に指を突きつける朋美。運動ならオールラウンドな朋美だが、話題の流れからして競泳を選んだらしい。っていうか、どうして勝負になった? やっぱり話題はクエンスチョンマークを描き続けている。
すぐに異を唱えたのは、指名を受けた未来だった。
「何故あなたと勝負しなければならないのですか? 私は寛くんを――」
「寛! あんたも一緒に来なさい! 先輩も来てもらって構わないから!」
『それなら文句ないでしょう?』と胸を張ってみせる朋美。未来には及ばないサイズだが、って何を考えているんだ、僕は。
「まあ、それなら構わないでしょう。寛くん、よろしくて?」
「う、ん、まあ、僕はいいけど」
「あ、俺も俺も! 全力で未来さんを応援する!」
「よし! 四人共大丈夫ね! じゃあ、放課後に少し残ってて! 集合場所は一年四組! いいよね!」
やたらとキラキラした目で、僕たち三人を見回す朋美。僕たちは彼女を見返しながら、各々頷いた。
※
その週末。放課後に作戦を立ててから数日後。
市民プールは閑散としていた。というより、僕たち四人とボディガード(出入口に重点配置)以外は、誰もいない。貸し切ったのだ。僕と先輩、それに未来の経済力からすれば、どうということもなかったらしい。
天気は快晴。この屋内プールの天井のガラス板から、穏やかな日差しが差し込んでくる。勝負のルールは簡単。二十五メートルプールの往復で五十メートル、自由形。
「それじゃ、あたしと未来は着替えてくるから。覗いたら殺すからね」
「誰もそんなことしないよ……」
「うむ。我々は健全かつ潔癖な紳士だからな」
「先輩、あなたが言っても説得力ありません」
『それじゃ、ちょっと待っててね~』という声を上げながら、朋美は未来の腕を引きながら更衣室に向かっていった。仲がいいのか悪いのか分からない二人だ。
それにしても、どうして朋美は未来に勝負を仕掛けたのだろう? ううむ、よく分からない。分からないが、それなりに考えてみれば、僕は入学してからの一週間、ずっと未来につきまとわれていた。
『つきまとう』という言葉は、未来からすれば不本意だろうが、実際のところそうだろう。
まさかとは思うが、朋美は未来の手中から僕を奪還するために、今回の勝負を仕掛けたのではあるまいか? いや、本当に『まさか』だけれど。
もしこの予測が当たっていたとしたら、何故朋美は僕を奪還しようというのか? 僕に構ってほしい、ということだろうか。
ポン、と僕の頭上で湯気が立つ音がした。
「ん? どうしたんだ? 寛、顔が真っ赤……っておい、お前!」
「はっ! は、はい?」
「もしかして、女子更衣室の中の光景を想像して舞い上がっちゃってるんじゃねえだろうな!?」
「い、いや、違いますよ!」
これは確かに違う。明確な誤解だ。だが、先輩は追及の手を緩めない。
「幼い頃のお前はもっと純粋で、汚れなき存在だった。しかし、思春期という名の悪魔がお前を変えてしまったのだ! ああ、なんと嘆かわしい……!」
「一目惚れした相手をプールに誘う先輩みたいな人には言われたくありません!」
「はっ! もしかして、お前も未来さんに気があるのか!? こん畜生、今に見てろよ、お前が優位に立っていられるのなんて、今日明日くらいなもんだ! 来週からは俺の時代が来る!」
「はいはい分かりました! 分かりましたよ!」
「それにしてもあの二人、いくら何でも着替え、遅くないか?」
「先輩の時代が来たら、僕は首を吊って……って、はい?」
我ながら不穏なワードを口にしたところで、僕は言葉を切った。腕時計に目を下ろすと、既に二十分が経過している。女性が着替えにかける時間って、どのくらいか分からないけれど、確かに長いよなあ。
僕は先輩を見た。先輩も僕を見た。アイコンタクトで意思疎通を始める。
(何が起こってるか、聞くくらいなら問題なよな?)
(ですね)
(じゃあ、盗聴しに行くか?)
(お供します)
こうして、僕と先輩は忍び足で、女子更衣室へと向かった。何だか特殊部隊がジリジリ迫る雰囲気だが、まあそこは僕も先輩も中二病を患っていた、ということでご容赦願いたい。
扉の正面に立った僕と先輩は、再びアイコンタクトで互いの位置を決める。僕がドアの右側を、先輩が左側を担当。さて、何が聞こえてくるか――。
「私は水着など持ってきておりません」
「はあ? あんた正気なの? 男子の前で泳ぐのに!」
「着服したまま泳げばいいだけの話です」
僕と先輩は、同時にクエスチョンマークを脳裏に描いた。今日、未来が着てきたのはいつものセーラー服だ。そんなものを着ていたら、衣類が水を吸ってまともには泳げまい。それに、最悪の場合、服の重みで溺れる可能性すらある。
まあ、抜群の戦闘能力を誇る未来だったらそんなヘマはしないだろうが、それでも心配なものは心配だ。
「では、私はもうプールサイドに出ます。朋美さんも急いでください」
「ちょっ、待ってよ! まだ着替え中――」
との遣り取りの後、扉がこちら側に向かって開いた。
「ぐほぅ!」
「あ、先輩が」
先輩は勢いよく扉に跳ね飛ばされた。鼻をぶつけたらしく、しきりに顔の下半分を押さえている。
「先輩! 大丈夫ですか?」
「あら、鬼山先輩」
おっとり対応する未来。その姿は、裸足になった以外は変わっていない。
僕が先輩の方へ駆け出そうとした、まさにその時。
「ちょっと! だったら早く出なさいよ!」
未来が後ろから小突かれた。朋美だ。
バランスを崩す未来。一歩踏み出してくる朋美。そして、未来を回避しようとした僕は、朋美にぶつかった――鼻先から、思いっきり彼女の胸元へ。
「ふえ?」
先に正気に戻ったのは、朋美だった。次に僕。なにやら柔らかいものに顔が包まれている。転倒は免れた。代わりに、僕は大事なものを失った気がする。これが、ラッキースケベの代償か。
朋美はスクール水着の、胸部にめり込んだ僕の両頬に手を当てて引っ張り上げた。
「さっき、更衣室を覗いたら殺すって言ったよね?」
こくこくと頷く僕。
「ということは、それ以上に悪事を働いたら、より酷い目に遭わされる、ってことは分かるよね?」
そこでようやく、僕はツッコミのきっかけを得た。
「殺すより酷い目に遭わせるって、そんな方法ないんじゃない?」
次の瞬間、僕は朋美のアッパーカットで宙を舞っていた。
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