第6話

 と、いうわけで翌日。

 僕は一切の世話を控えるよう、使用人たちにお願いした。命令した、とも言う。そんなことをしたと思われたくはないが、そう取られても仕方のないことかもしれない。


 蝶ネクタイやら整髪剤やらには散々苦労させられたが、まあ、こんなものだろうと僕は勝手に諦めをつけた。それより、早く登校だ。なんだか『はじめてのおつかい』みたいで一人赤面してしまう。しかし、皆にとってはそれが普通なのだ。僕も一人前の人間(今のところは高校生)になれるように、登校しなければ。


 ふっと息をついて、玄関から一歩外に出る。『ついて来るな』と言いつつも、きっとボディガードはどこかで僕を見張っているはずだ。どうやったら振り切れるだろう? いや、いつもと違って堂々と僕を見張っているわけはないだろうから、僕に危険が及んでも、反応が遅れるはずだ。


 危険に跳び込むのが目的ではないけれど、多少のスリルは味わいたい。同時に、ただの『登校』というごく日常的な行為にスリルを覚えてしまうのはいささか情けないな、とも思う。


 まあいい。これは僕が慣れていない行為なのだ。緊張感に苛まれる方が自然というもの。僕は人一倍小さな歩幅を、より小さくしてゆっくりと早朝の街を歩んでいった。俯きがちに、時々あたりを見回しながら。


 ふと、脇道が視界に入った。朝日が昇り、早朝出勤の車が行きかい、ランニングに励む人々が僕を追い抜いていく。僕は今日何度目かの、周囲警戒を試みた。ボディガードらしき人々は視界に入らない。いや、向こうからは僕が見えているのかもしれないが、少なくとも僕には見えない。多少の悪ふざけは構わないだろう。僕はささっとカニ歩きをして、脇道へ入った。


 そこは、なんとも汚い路地だった。今まで歩いてきた幹線道路沿いの明るさとは、見事に対照的だ。

 そんな場所で僕が抱いたのは、一抹の恐ろしさと一杯の好奇心。今日は、ここを通り抜けてみよう。どうせ学校に近づくことには変わりないのだ。僕は意気揚々と、なんて言うとまったくもって変人だけれど、その路地裏を進んでいった。


 路地裏は、進めば進むほどその暗さ、怪しさを増してくる。油がねっとりとアスファルトに垂れ流しにされ、生ごみの異臭が鼻を突く。耳を澄ましてみると、幹線道路からはだいぶ遠ざかってしまったようだ。

 流石に『引き帰す』というオプションがないわけではない。だが、それより好奇心が勝っていた。パリン、という音が、足元から響いて来るまでは。


 ビルの隙間に反響する、何かが割れる音。僕は立ち止り、足元に目線を落とす。これは、注射器か? 

 どうしてこんなところに注射器があるのだろう。ここは病院でもなんでもない、ただの路地裏だ。ということは、誰かが勝手に医療行為を行っている、ということだろうか。


 しゃがみ込んで注射器を検分していると、唐突に声をかけられた。


「おい、ガキ」


 僕ははっとした。同時に背筋からぶわっと汗が染み出てくる。それはその声が、今まで耳にしたことのない、ドスの利いた声だったからだ。

 ゆっくり立ち上がると、相手の全貌が見て取れた。まだ若い。二十代中盤といったところか。しかし身体はひょろひょろで、顔はやつれている。そんな姿であっても、目だけはギラリ、と凶暴な光を帯びていた。僕は声も立てられずに、しかし視線を逸らすこともできずに、その場に立ち尽くした。


「おい、ガキ。聞こえてんのか」


 相手が繰り返す。


「てめえ、見ちゃいけねえもんを見ちまったみたいだな」

「……ぇ」


『何のことですか?』などと訊き返す余裕はない。僕はカエルが潰されたような、ぐえっという音を喉から発した。それが精一杯だった。


「まさかてめえ、気づいてねえとは言わせねえぞ。俺たちのヤクに勝手に手を出しておいて、無事に帰れると思うなよ?」


 ヤク? ヤクってまさか、怪しいクスリのことか? 覚醒剤、とか? 確かに、それを知られてはマズいだろう。


「ボケた顔してなに突っ立っていやがる。これからぶちのめしてやろうってのによ」


 相手が背後から取り出したもの。それは金属バットだった。

 その一瞬で、僕の胸中の好奇心と恐怖感の割合は反転した。無論、恐怖感が増す方に。


「う、ぅ、うわあ!」


 僕は思いっきり尻餅をついた。ズボンが汚れるのを気にも留める余裕があるわけがない。身体を捻りながら、元来た道を逆走しようと試みる。だが、


「おおっとお! ここから先は戻れないぜ、お坊ちゃん」


 今度は恰幅のいい、いかにもヤクザ風の男が退路を塞いでいた。武器は持っていないが、その拳だけで僕は半殺しにされてしまうだろう。


「通報でもされたら困っちまうんだよなあ、オジサンたち。だからな、お坊ちゃん」

「は、ぃ……!」

「ここで死んでけ」


 すると、ヤクザが猛スピードで突っ込んできた。回避する、という概念もなく、ただただ恐怖する僕。そして、気づいた時には身体が宙を舞っていた。そのままビルの壁面に叩きつけられる。

 痛みは感じなかった。感じる余裕がなかったのだ。自分が暴力行為の対象にされ、殺されてしまうという絶望感のために。

 ばったりとうつ伏せに倒れる僕。そうだ、ボディガード。彼らなら、こんな連中あっという間にやっつけてくれる。しかし、革靴の駆けてくる気配はない。もしかしたら、本当に僕を見失ってしまったのか。


 絶望感にずぶずぶと沈んでいく僕。だが、今度は背中に打撃が走った。


「よっと!」

「ッ!」


 どうやら、金属バットで殴打されたようだ。次いで、後頭部に重圧。頭が踏みにじられているらしい。


「なんだコイツ、悲鳴も上げられねえのか」

「やっぱ始末しちまうしかねえな」


 そんな言葉が耳を掠めていく。いや、脳内に直接捻じ込まれるようだ。僕の目は、もうまともに働いていない。お星様がくるくると回っている。

 あまりの人生の希薄さ故に、痛みさえも感じず、しかし恐怖に苛まれながら、一生を終える。

 こんな人生、皆には送ってほしくないな。朋美、鬼山先輩、それに未来。短い間だったけど、お世話になったなあ……。


 そんなことを思っている間にも、僕は暴力を振るわれていた。仰向けにひっくり返され、腹部を踏まれ、唾を顔に吐きつけられる。一体どこから出てきたのか、最初二人だった相手は五、六人になっていた。

 勝てっこない。本当に僕は、ここで死ぬ。まったく、何のための人生だったのだろう。


 僕がゆっくりと瞼を閉じかけた、その時だった。

 踏みつけが、急に止んだ。ざざっ、と僕の頭の方へ、男たちの足が移動する。僕はなんとか身をねじり、首を上げて、男たちと同じ方を見遣った。


「う、うあ!?」

「なんだ、なんだ!?」


 二人の男が、浮いている。地面から足が離れ、持ち上げられている。誰に?

 その答えはすぐに明らかになった。持ち上げられた二人の男は、思いっきり顔面を壁に叩きつけられた。メリッ、という嫌な音がする。顔の骨が折れたのか。そしてその男たちの間から顔を出したのは、


「み……らい……?」


 誰あろう、あの此崎未来だった。だが、不思議少女然とした雰囲気は、完全に上塗りされている。鋭利な殺気を帯びた、燃えるような眼光によって。


「な、なんだこのアマぁ!」


 僕を踏みにじっていた男たちが、ジャックナイフやビール瓶を手に、一斉に駆け出した。


「未来! あぶな――」


 だが、心配は無用だった。

 先頭のナイフ男の斬りつけを回避した未来は、横から腕を掴み込んで、その肘に自分の膝を叩き込んだ。バキリ、という破砕音が響く。先頭の男は短い悲鳴を上げながら吹っ飛んだ。

 次の男の得物はビール瓶。先頭の男を投げ飛ばしていた未来の後方から迫る。が、未来は思いがけない挙動に出た。その場でしゃがみ込んだのだ。空を斬るビール瓶。その時には、既に未来は二人目の男を睨みつけていた。

 片手を地面につきながら、思い切り腕を回転させ、足払いをかける。


「うおっ!?」


 倒れ込んでくる男に対し、未来はそのまま一回転。爪先を突き上げるようにして男の顎を蹴飛ばした。これまたグシャリ、と硬質なものが砕ける音がする。男は声を上げることもできず、勢いで後方へと吹っ飛んだ。


 未来はそのままバク転し、ボクサーのような戦闘姿勢を取った。腕を顎の高さまで上げ、足を軽く開く。


「畜生! 一気にかかれ!」


 先ほどのヤクザが指示を出す。しかし、残る二人の部下は、一人は腹部へのアッパーで立ったまま気絶していた。未来は、そいつの腕を掴んで振り回し、もう一人の接近を拒む。

 そのまま勢いづいた部下は、すっぽりと後方、接近できずにいた男の方へ投げ飛ばされた。

 もつれ合うようにして転倒する二人。未来は膝を曲げながら思いっきり跳躍し、二人の腹部を踏みつけた。


「ッ!?」


 もはや声にもならない悲鳴がした。胃か肺あたりが破裂したかもしれない。


「ええい! こいつがどうなってもいいのかあ!」

「え?」


 僕は思いっきり後ろ襟を引かれ、引き上げられた。ヤクザの右腕が僕の首に巻きつく。ヤクザの左腕には、キラリと光るものが見えた。ナイフか? 違う。これは、拳銃だ。拳銃が握られている。


「こっ、これ以上近づくと、このガキの頭をふっ飛ばすぞ!」


 未来は無言。ふっと上から舞うように、ビル風が吹き降りてきた。

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