第7話
ヤクザの言葉に、未来はゆっくりとファイティングポーズを解いた。そのまま俯き、片膝をつく。
「へ、へへっ、そ、それでいいんだ」
僕は少しばかり安心した。これ以上、未来の暴力沙汰を見たくなかったからだ。しかし、それも一瞬のことだった。
「まずはてめぇを殺してやる!」
と叫びながら、ヤクザが拳銃を未来に向けたのだ。最初から僕たち二人を殺すつもりで……!
拳銃の矛先から逃れた僕は、なんとかヤクザの拳銃を叩き落そうとした。が、僕がどんなに暴れても、ヤクザには通用しない。筋力差も体格差もありすぎる。
僕をまったく無視した上で、ヤクザは悠々と拳銃を未来の頭部に向けた。未来はひざまずいたまま動かない。
「未来ッ!!」
僕が叫んだ、次の瞬間。
響いたのは、銃声ではなかった。何かが空を斬る音だ。同時に僕は地面に落とされ、ヤクザ男の悲鳴がこだました。
「うぎゃあああああああ!!」
振り返ってみると、ちょうど男の顔面、目線にあたる部分が真っ赤に染まっていた。未来は相手が引き金に力を込める瞬間、ガラス片を拾い上げ、投げつけたのだ。ちょうど、相手の目の高さで横切るように。
未来は立ち上がり、僕の眼前を通りながら、ビール瓶を腕で無造作に叩き割った。その鋭利な切り口を、闇雲に拳銃を振り回すヤクザの腹に叩き込む。血液が頭上から降り注いでくるのを、僕は転がって回避した。
再び響き渡る絶叫。
まともな視力を失ったヤクザは、発砲することすらままならず、腹部から出血しながら仰向けにぶっ倒れることになった。
すると、返り血を浴びた黒髪にさっと手を通しながら、未来はスマホを取り出した。やたらと短い番号を打ち込む。これは……一一九番か?
すぐさま出た電話の相手に向かい、未来は淡々と住所を告げ、『ヤクザ同士の抗争です』とだけ告げて通話を終了した。この不良共を殺す気はないらしい。
その時初めて、僕と未来の目が合った。
「大丈夫? 寛くん」
血塗れの顔でそう言われても困る。恐ろしくてまともな対応ができない。取り敢えず僕は、自分の頭部をコクコクと揺さぶった。
「今救急車呼んじゃったから、ここから離れた方がいいわね。さあ」
再びひざまずき、僕に手を伸ばす未来。ゆっくりとその手に触れると同時、僕は緩やかに引っ張り上げられ、お姫様抱っこ状態になった。もちろん、性別は逆転している。
「一旦あなたの家に戻りましょう。こんな格好で登校したら、怪しまれるからね」
言うが早いか、未来は僕を抱いたまま、三角跳びの要領でビルの隙間を登り切った。
ここに至り、ようやくボディガードたちが路地裏に駆けこんできたが、未来は『後のことは頼みまーす』とビルの屋上から呼びかけただけ。
そのまま、家屋の間を跳躍しまくり、あっという間に僕の家の屋上に足を着いた。
※
「担架! 担架だ!」
「お坊ちゃまが大怪我を!」
「医療班、緊急手術準備!」
使用人たちが右往左往する。野戦病院もかくやという勢いだ。
「こんなに大騒ぎする必要なんてないのにね」
僕のすぐ傍で、未来が肩を竦めてみせる。当の僕はと言えば、あれよあれよという間に身体が運ばれていく状況に戸惑っていた。そんな現場に、未来が随伴しているのだ。
「此崎未来様、お坊ちゃまの救出、感謝いたします」
「ああいえ。大した相手ではありませんでしたから」
深々と頭を下げる執事に、本当に何事もなかったかのような態度で応じる未来。先ほどまでの気迫はどこへやら。後頭部に手を遣って、
「あ、よろしければシャワーお借りできます?」
などとのたまっている。
「かしこまりました。着替えもご用意させていただきます」
「あ、これはどうも」
なんだか身内のような気軽さの未来。
「寛くん、今日は欠席だね。入学式の翌日早々で残念だけど。赤坂先生には、ちゃんと伝えておくから」
それだけ一気に語り終えると、未来は長い黒髪をさっと振るようにしてこちらに背を向けた。午後からでも出席するつもりなのだろう。
しかし。
勝手知ったる様子で浴室まで歩いていく未来の姿に、僕は違和感を覚えずにはいられなかった。
どうして僕の新居の構造を知っているんだ? 学校でもそうだ。一体彼女は、僕と、僕を取り巻く環境のどこまでを知っているんだ? そしてそれだけの知識を持ってして、僕に何をしようというんだ?
と、そこで僕の意識は途切れた。先ほど打たれた鎮静剤の注射が効いてきたのだろう。未来の後ろ姿を見つめながら、僕の意識は強制的にシャットダウンさせられた。
※
「ちょ、君、待ちたまえ!」
「ねえ、寛は? 寛は無事なの!?」
「大したお怪我ではない! 今は眠っておられる!」
「だったら起こしてきて! 会わせてよ、寛に!」
「だから、今は絶対安静に……!」
なんだ、騒々しいな。僕は瞼を開ける前にそう思った。
どのくらい眠っていたのだろう? 身体の節々がようやく不快感、すなわち痛みを訴え始めている。ベッドの上で上半身を起こし、首を巡らせると、やっと時計が目に入った。
午後五時二十分。日付は一緒だから、半日眠っていたらしい。まあ、その程度の負傷だったということなのだろう。
僕はほっとして、胸に手を当てた。軽く腕が引き攣るような感じがしたが、耐えられないほどの痛みはない。
火急の問題は、この個室のスライドドアの向こうで騒いでいるらしい熱血少女。声から察するに、間違いなく桑原朋美だ。他に思い当たる人物はいない。いや、彼女以外にいてもらっては困る。
僕は慎重にベッドから足を下ろし、立ってみた。バランス感覚に問題はない。痛みもさほどでもない。二、三日後には、また登校できるだろう。
ゆっくりと部屋の隅にあるスライドドアに近づいた僕は、そこから声を吹き込んだ。
「もしもし? 寛です。意識が戻りました。身体は異常ないみたいなので、そこの女の子を部屋に入れてあげてください」
すると、一瞬の間も置かずしてドアが開き、
「きゃっ!」
ずべっ、と朋美が半回転して倒れ込むように床を滑ってきた。尻餅をつき、カーリングのストーンのように軽く回転しながら。
「朋美! だいじょ――」
と声をかけようとして、僕は振り向く。そして目視確認してしまった。朋美の今日の下着の色が、パステルブルーだということを。
「ぶふっ!」
せっかく閉じた傷口が開いたのか、つつつっ、と鼻血が垂れる。なんだかここ数日、流血沙汰ばかりだ。
「あいたたた……。あっ、寛! 大丈夫? って、血が出てるじゃない!」
自分の尻を擦るのもそこそこに、朋美は立ち上がってずんずんと僕に迫ってきた。顔が近い。近いって。
僕よりもちょっとだけ背が低い朋美。そんな彼女に、涙目で、しかも零距離で見上げるような姿勢を取られてしまっては、男としては為す術がない。
「大丈夫? ねえ、大丈夫なの!?」
流石にこれは僕の身体に響くと判断したのだろう。ボディガードが無理やり朋美を引き離しにかかる。が、
「邪魔すんな!」
という怒号と共に振り上げられた踵が股間に直撃し、沈没する。
悲鳴を堪えてうずくまる黒服姿を見て、僕は、自分の方がまだマシな状況にあることを悟った。
「ねえ、大丈夫なの? はっきりしないとぶちのめすよ、寛!」
「お前は僕の心配をしてるのか脅してるのか、どっちなんだよ?」
「えっ?」
すると、朋美はポカンと目と口を開き、動きを停止。それからしゅん、と項垂れてしまった。おいおい、一体どうしたんだ。
こんな彼女を最後に見たのは、中学二年の秋。剣道の試合で、全国大会準決勝で敗れた時以来だ。試合後、応援に駆け付けた僕の前で、同じような態度を取っていた。
確かあの後、声をかけようとしたら、ぐっと袖で涙を拭って走り去ってしまった、と僕は記憶している。
「あ、あはは、ごめん」
彼女は笑顔でそう言った。しかし、その声は乾ききっていて、僕を見上げる瞳はゆらゆらと揺れている。
「本当に、ごめんね? つ、つい心配しすぎて素が出ちゃったみたいなんだ」
えへへ、と頬を掻く朋美。いや、お前はいつも素のお前だろう、というツッコミは胸の中に収めておく。
「元気になったら、また学校に来てよ」
「そりゃあ当たり前だろう?」
「だ、だよね!」
ぱっと顔を上げてから、朋美は一歩、ぴょこんと引き下がり、鞄を担ぎ直して『んじゃ!』とだけ告げて去っていった。
開いたスライドドアの向こうの窓、それにさらに向こうから夕陽が差し込んでいる。
残されたのは僕と、先ほどからうずくまってばかりのボディガードが一名。それと、
「どうして君がここにいるんだ、未来?」
バットマンのごとく、どこからともなく現れた未来に、僕はため息混じりで声をかけた。
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