第8話
未来がいるのは、僕以外の人間にとっては織り込み済みの事象だったらしい。誰も彼女を怪しんだり、追い出そうとしたりはしない。怪しんでいるのは僕だけだ。
「もう一回訊くけど、どうして君がここにいるんだ?」
「だって桑原さんが、学級委員長なのに寛くん宛のプリント忘れて学校を飛び出していっちゃったから。ほら」
「あ、ありがと」
無造作に差し出されたプリント。新入生としての心得とか、各教科の主な指導方針とか、年間スケジュールとか、そういうものの集まりだ。
大雑把に目を通した僕は、半眼でじろり、と未来を見た。
「でも、それだけが目的じゃないんだろ?」
「ご明察」
きっと。いや、間違いなく。
「朋美が僕に危害を加えないかどうか、確かめてくれてたんだろ?」
「まあね、そういう万一の事態には備えておかないと、私の立場がないし」
「立場?」
僕を守る立場であれば、ボディガードが何人もついている。股間を押さえてうずくまっている者がいるので、一人欠員ということになるが。
話は戻るが、どうして未来が『桐山寛の守護者』を自称しているのかが分からない。この際だ。訊いてしまおう。
「どうして僕を守ることが、君の利益になるんだ?」
「利益なんてレベルじゃないわ。存在意義よ」
「そ、存在意義って……」
随分と重い話題を振ってしまったらしい。
「あなたを守り、観察する。それが私の――」
と言いかけた時、未来の肩がぴくり、と跳ね上がった。それは僅かな所作。しかし、何か非常事態が起きていることは、そばにいた僕には察しがついた。
「ど、どうしたんだ、未来?」
「え?」
すると、未来の肩の振動はすぐに治まった。
「私、どうかしていたかしら?」
「い、いや、僕と会話中に突然震えだしたから……」
「本当に?」
「記憶にないのか?」
「えっと……。私たち、何の話をしていたのかしら?」
待てよ。僕は自分の頭を高速回転させた。未来はどこか、人間離れしている。そしてもしかしたら、それはアクロバティックな体術だけではなく、神経にも見られる症状なのかもしれない。
何か精神的な疾患を患っていて、特定の分野に話が及ぶと、平常心を保てなくなるとか、記憶が飛ぶとか。そういうことがあってもおかしくないのかもしれない。
「どうしたの、桐山寛くん?」
ここは思いっきり話題を変えるべきだ。
「未来、僕のことは、これからは『寛』って呼んでくれない? 『ゆ・た・か』って」
すると、未来はその切れ長の瞳を丸くして、僕を真っ直ぐに見下ろした。こうでもしないと視線を合わせられないのが悔しいところだが。
「どうして急に?」
この問いに答えることは不可能だ。元々、『今の話題を変えよう』という趣旨で持ち出した話題なのだから。
「なっ、なんでもいいだろ? 僕だって君を『みらい』って呼び捨てにしてるんだから」
「ふうん?」
未来は口元を緩めた。
「なんだよ、おかしいかよ。君に命を救ってもらっておいて言うのもなんだけど……。いや、だからこそ、同学年や幼馴染の友達とは、堅苦しく呼び合うのは嫌なんだ」
この発言にはちょっとした語弊がある。
幼馴染、すなわち朋美や鬼山先輩は例外としても、僕は友達を作る気はない。いや、端から諦めている。
この高校で得られるのは、ネームバリューや肩書き、親の用意した人生航路、そんなところだ。そういうものを求められたがために、僕は両親に厳しく躾けられてきた。
だが、実際はどうだ。皆が互いを蹴落とし、のし上がり、人生の勝ち組(そんなものがあれば、だが)になろうとしている。そんな連中とお近づきになるのは不本意だ。
ふと、入学式で感じた『戦争』のきな臭さが甦ってきて、僕は思わず顔をしかめた。
「……やってられるか」
誰にともなく、言い捨てる。しかし、その言葉は見事に未来に回収されていた。
「やってられるかって、何が?」
「何もかもだよ! 僕は勉強が嫌いじゃないし、一生懸命勉強して、できることならいい大学にも行きたいさ。けど、それだけを目的にして生きていきたくはないんだ!」
未来は黙って僕を見つめている。彼女と目を合わせられなくて、僕は檻の中の猛獣のようにどすどすと病室を闊歩した。そんな僕に、未来はなんのリアクションも示さない。
沈黙を続ける未来に対し、僕はいい加減その顔を見返してみた。
そこにあったのは、無表情だった。彼女の整った顔立ちが、最も引き立てられる表情。同時に何か、無機質で冷たいものを感じさせる風貌。
「じゃあ」
唐突に、未来が口を開いた。
「私はあなたの友達ではない、っていうことなの? 寛くん」
思いがけない問いかけだった。確かに、最初は変な女子だと思ったけれど、よく考えてみれば僕だって十分な変人だ。そのくらいの自覚はある。
そこまで考えてから顔を上げると、再び未来と目が合った。先ほどと変わらないような気がしたけれど、どこか寂しそうな、憂いを帯びた表情に見える。これは僕の単なる思い込みだろうか? そうして受け流していいものだろうか?
「そうだな」
僕は立ったまま腕を組んだ。
「僕は君のことをよくは知らないし、君がどれほど僕のことを知っているかも分からない。だから、お互い友達になる前に、変人同士の関係、ってことでどう?」
「変人、同士……」
僕の造語を、未来はゆっくりと口内で転がし、吟味する。
すると、ふっと破顔した未来は、
「それも悪くないわね」
と言って首を傾げてみせた。
「じゃあ、変人よろしく。寛くん」
なんだよ、それ。だが、差し出された右手に触れるのに、抵抗感はなかった。
「ああ。よろしく頼むよ変人、未来」
すると未来は手を解いて、思いっきり伸びをした。胸元が強調されてドキリとする。鼻血に繋がる前に、僕はさっと目を逸らした。
「さあ、私も帰ろうかしら。ロールスロイス、お借りしてもいい?」
「大丈夫。僕の許可を貰ったって言えばね」
「分かったわ。それじゃ」
そう言い終えるのと、病室のドアが閉まるのは同時だった。
※
その日の夜。
《はぁ!? あの子が見舞いに来たぁ!? ムキーーーッ! なんて羨ましいんだッ!》
「あ、あの、鬼山先輩?」
《そんな目に遭って、羨ましい以外の何があるっていうんだよ! リンゴでも剥いてもらったか? プリントを届けてもらったか? まさか勢いで目覚めのキスを……!》
「あーったくもう!」
僕はスマホをぶん投げたくなった。が、落ち着け落ち着け。
僕の狙いは、この高校において気の許せる人間と情報を共有しておくこと。だから、見舞いに来られなかった鬼山先輩に、病室でのことの顛末を語ろうと思っていたのだ。
ところが、いざ此崎未来の名前を出したら、唐突に鬼山先輩はスマホの向こうで悶絶し始めた。
そう言えば、小さい頃から鬼山先輩は、惚れっぽいというかなんというか、そんなきらいがあった。プレイボーイではないけれど、女の子にちょっかいを出すことが多かったような気がする。
「二、三日したら、僕は登校できます! その時にちゃんと紹介しますから! だからそう喚かないでくださいよ! 仮にも僕は怪我人なんですからね!」
《……む》
やっと静かになってくれたか。
「連絡はしますから、その時には一年四組の前に来てください。朝早めの時間帯なら大丈夫だと思いますので」
《了解だ、桐山大尉!》
大尉って、一体どのアニメのどのキャラクターを意識したのだろう。ま、いいや。
こうして、僕は鬼山先輩との通話を終えた。
馬鹿に広い部屋の、奥中央に置かれたベッドに横たわる。思いっきり大の字だ。僕は今日あったことを思い返そうとした、その時だった。
スマホが鳴った。こんな時間に、誰だ?
画面を見て、僕は苦虫を噛み潰す思いがした。父だ。
《通学路を外れて登校しようとしたそうだな》
開口一番、これか。
《それに、覚醒剤常用者のうろつくような道に入ったとか。一体何を考えているんだ、お前は? 成績次第では、振り込みを減額するぞ》
何も言い返すことができない。悔しいが、両親からの振込は僕の生命線なのだ。減額されたり、使用人が減らされたりしては困ることがあるかもしれない。
《怪我が治ったら、すぐに勉強に移れ。以上だ》
ツーッ、ツーッ、ツーッ、ツーッ……。
僕はしばらく、受話器部分を耳に押し当て、わなわなと震えていた。そして全く唐突に
「ふざけんじゃねえよ!」
と叫び、思いっきりスマホを脇に放り投げた。幸い、スマホは枕に吸い込まれ、ダメージはなかったようだ。だが、そんなことはもうどうでもいい。
親なんて――大人なんて、所詮こんなものなのか。
既に入浴も歯磨きも終えていた僕は、そのままさっさと寝つくことにした。
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