第26話

 ――にゃぁお。

 なんとも気だるげな、緊張感のない鳴き声。涙で歪んだ目で見ても、それは間違いなくうちの飼い猫だ。


「あらあら、アレクサンダーちゃん!」


 母がしゃがみ込んで、長ったらしい名前の猫に向かって両腕を広げた。真っ黒で艶のある飼い猫は、やや大きめな身体を持て余すようにのそり、のそりと歩み入ってくる。

 凝り固まっていた空気が破れ、父はふん、と鼻を鳴らして葉巻をくわえた。ボディガードが歩み寄り、ライターを着火して葉巻に近づける。ヤクザの親分かよ。


 その時だった。猫は不意に振り返り、こちらを見た。そして緩やかな動きで、未来に跳びかかったのだ。

 恐らくその軌道を計算したのだろう、未来は両手で猫を掴み込んだ。ちょうど正面から、適当な距離を取って。

 唸り声を上げるでもなく、噛みついたり引っ掻いたりするでもない。猫は大人しく、未来に掴まっていた。そして異常をきたしたのは、猫ではなく未来の方だった。


 猫がするり、と未来の手から滑り落ち、綺麗に着地する。


「あら、アレクサンダー!」


 母の声を無視して、父の執務机の陰に引っ込む。その間、未来はぴくりとも動かなかった。


「どうかなさいましたか、此崎様?」


 ボディガードの一人が歩み寄る。すると未来は、急に脱力したように腕を下ろした。そして口を動かすことなく、喉の奥から、実に無機質な音を発し始めた。


「緊急コード、ナンバー09。直前の命令を確認、第一次シークエンスの達成率、百パーセント。第二次シークエンスの達成率、計測中」


 周囲がざわついた。


「おい、何が起こっている」


 父がそばのボディガードに向かって尋ねたが、相手は首を左右に振るばかり。

 その間も、無機質な音声は続いていく。


「第二次シークエンスを直前三十秒以内に設定、オーダー内容を確認中――確定。命令発言者・桐山寛、命令内容・ナンバー00」

「ちょっとあなた、何がどうなってるの!?」


 父の肩に寄り添う母。先ほどまで紅潮していた顔は、顎から額まで青白くなっている。


「至急、鬼山に連絡を繋げ。『お前の造ったロボットにバグが発生した』と」

「はッ」


 頭を下げるボディガード。だが、彼も未来から目を離せなくなっている。

 すると、未来がゆらり、とこちらを向いた。


「命令内容・ナンバー00を確認。目標認識中――完了。シークエンス、スタート」


 未来の瞳がギラリ、とコバルトブルーに輝いた。


「寛ッ!」


 僕は朋美に、勢いよく突き飛ばされた。そのまま抱き合うようにして、僕と朋美は床を転がる。はっと顔を上げると、未来がひざまずいていた。いや、違う。鉄拳を床にめり込ませていたのだ。

 ざっと全身から熱を奪われるような感覚。あんなものを喰らったら、大怪我レベルでは済まないだろう。


 鉄拳が外れたと知るや否や、未来は左腕をこちらへ差し出した。ガコン、と生身の身体には非ざる音を立てて、手首のあたりが折れる。そこには銃口が覗いていた。


「朋美ッ!」


 僕は寝転がったまま、どん、と朋美の背中を押した。鉄拳を回避したのと同様に、今度は僕が朋美を突き飛ばし、自分はその反動で転がって立ち上がる。直後、未来の左腕が火を噴いた。パラララララララッ、と軽い音がする。すると、僕らの背後にいたボディガードが倒れ、花瓶が割れ、壁に穴が開いた。


「何をやっている! 未来は故障したんだ、ただちに破壊しろ!」


 父が初めて、感情を露わにした。ボディガードたちが一斉に懐から拳銃を抜くが、遅い。

 銃撃を続けながら、未来は


「シークエンス実行中、妨害勢力を確認。妨害勢力の排除を優先する」


 との音声を立てて、ザッと腕を顔の前でクロスした。防御態勢を取ったのだ。

 パン、パンパンと拳銃の発砲音が響き、未来の身体から僅かに鮮血が飛び散る。が、すぐに銃声は止んでしまった。焦りのために、ボディガードたちは残弾を考慮せずに撃ちまくってしまったのだ。


「くそっ!」

「援護してくれ!」

「俺もリロードだ!」


 などなど声が飛び交うが、それは未来にとっては反撃の絶好の機会だった。腕を一旦下ろした未来。おそらく弱点なのであろう頭部は、頬に一筋、銃弾が掠めただけだ。それからガシャリッ、と音を立てて、再び左腕を展開した。


「皆、身を隠せ!」


 叫びながら、僕は朋美にソファの裏にと引っ張り込まれた。再び響く、一方的な銃撃音。

 それが止んでから、僕はそっと顔を覗かせた。未来は座り込み、足の太腿を展開している。色っぽさは微塵もない。展開された太腿からは、左腕の機関銃の弾倉らしきものが取り出されるところだった。


 ボディガードたちにとって幸いだったのは、きちんと防弾ベストを着用していたこと、そして未来が彼らの頭部を狙わなかったことだ。それでも、辺りには赤黒い血溜まりができ、呻き声があちらこちらから聞こえてくる。執務机の方を見たが、両親の姿は目に入らなかった。怪我でもして、うずくまっているのだろうか。

 

 今はそんなことはどうでもいい。そう、どうでもいいのだ。両親のことなど。とにかく僕は朋美と一緒に、突如暴走した未来から逃げなければならない。それだけだ。

 その時、キュイイイン、という音が耳朶を震わせた――キャノン砲で僕たちをふっ飛ばす気か!


 僕は朋美の手を引き、慌ててソファの陰から出た。そのまま扉に向かって駆け出そうとしたが、突進して押し開けるだけの勢いはない。


「伏せろっ!」


 朋美の後頭部に手を回し、ぐいっと下げる。自分も勢いよくうつ伏せに倒れ込んだ。そして、いくつかの出来事が同時に起こった。


 僕と朋美の髪が、強風で揺れる。視界が真っ白に染まる。目前の扉が木端微塵になる。


 遅れてドオッ、という轟音が響き、焦げ臭さが鼻腔を占めた。きっと髪が焦げる臭いだろう。

 視界は真っ白なままだったが、眩しくはない。きっと、キャノン砲を喰らった扉や壁が粉砕され、煙を立てているのだろう。未来の右腕が何秒でチャージされるかは分からない。しかし、逃げるなら煙が振り払われる前に、だ。


「逃げるよ、朋美!」

「ええ!」


 僕と同時に立ち上がった朋美は、僕を引きずるような勢いで駆け出した。後ろからキャノン砲が再チャージされる音がするが、僕たちは振り返らない。そんな余裕はない。

 階段に至った僕たちは、二段飛ばしで駆け下りる。背後から聞こえ続けるチャージ音。


「跳ぶよ、寛!」

「え? え!? えええ!?」


 朋美は僕の手首を握り直し、空中に身を躍らせた。直後、熱い何かが僕たちの背中を掠めていき、エントランスのシャンデリアを粉砕した。

 先に着地した朋美が衝撃吸収材の役割を果たし、僕は無事に床に足をつけた。


「うあ!?」

「しっかり走って、寛!」


 朋美は僕の手を握ったまま駆け出した。が、エントランスから外に出るには、また分厚い扉を通過しなければならない。すると武器を切り替えたのか、カシャカシャという音がして、機関銃の音が響き渡った。

 当然ながら、弾丸の方が僕たちの足より速い。これではじきに追い詰められる。どうしたらいい?


 その時、ふっと未来が顔を上げた。何だ? この軽い地震のような振動は?

 未来が咄嗟にキャノン砲をもたげ、チャージを開始した直後だった。重低音と、耳をつんざくような雑音と共に、エントランスの扉がぶち破られた。


「乗れ! 二人共!」

「せ、先輩!?」

「鬼山くん!?」


 完全に場が混乱する。


「後部ハッチが空いてる! 二人は回り込んで、さっさと乗り込むんだ!」


 その時、ようやく僕は気づいた。これは、陸上自衛隊の装甲車だ。どうやって先輩が手に入れたのか、そもそも何故運転できるのか、分からないことだらけだったが、それは後回し。


「喰らえ! 狂ったロボットめ! 俺の恋心を踏みにじりやがってぇ!」


 先輩は天井のハッチから上半身を乗り出し、機関砲を見舞った。

 ズドドドドドドドッ。

 未来の左腕の機関銃とは比べ物にならない、凄まじい威力の弾丸が、エントランスホールをハチの巣にしていく。しかし未来は、宙を舞い、床を転がり、遮蔽物となる柱の間を行き来しながらこちらの隙を窺っている。


「もうすぐ弾切れだ! 後退する! 何かにしっかり掴まっとけよ、お前ら!」


 ミシミシと邸宅が軋む音を上げる中、先輩は操縦席へと収まった。


「よっと!」

「せ、先輩、これ、一体どういう……?」

「見ての通りだ。未来の機関銃だったら防げるが、キャノン砲は防げない。ちょっくら戻るぞ。俺たちに有利な戦場へ」


 尋ねたいことは山ほどあったが、取り敢えず僕は黙り込んだ。装甲車に揺られるがままになって。

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