第31話
僕はそれから二週間、入院した。いや、入院させてもらった。それだけの財源があったのは幸いだ。
登校もせず、一日の大半は個室に籠り、面会謝絶で二週間。朋美や先輩、赤坂先生とも顔を合わせることはなく。心配してくれた彼らには申し訳ないが、手紙(というかメモ書き)での遣り取りで済ませることにしていた。返信も素っ気ないものになってしまったけれど。
理由は単純。考えごとをしていたからだ。僕は卑怯で弱虫な、情けない男なんじゃないか、と。それでも『彼女』には、きちんと話をしなければならない。どうにかして、正確に、そして正直に僕の想いを伝えなければならない。
そうして考えがまとまったのが、ちょうど入院から二週間後だったということだ。ただし、ボディガードを一人つけてもらうだけで、それ以外には誰にも知らせていない。割合、静かな退院となった。
以前も使ったセダンに乗って、目的地を告げる。ボディガード兼運転手は『かしこまりました』と答えただけで、異議や疑問を呈することはなかった。向かったのは――。
※
「あら、寛さん、もうお怪我の方は大丈夫ですの?」
「うん、大丈夫だよ」
華藤家の、雪乃の住まう一室。
「君の方こそ、だいぶ元気になったみたいだ」
「ええ。お陰様で」
穏やかに微笑んで見せる雪乃。確かに、この前よりも血色はいいようだ。元気になったというのは本当なのだろう。それとも、僕が訪れたからか。
「今日は、大事なことを伝えにきたんだ」
「はい」
目を輝かせ、僕を見つめる雪乃を前に、僕は目を逸らさずにはいられなかった。そこで一つ深呼吸。こんなことじゃ駄目だ。きちんと誠実に、雪乃の顔を見て語らなければ。
「君との許嫁の約束を解消しにきた」
数秒間の沈黙の後、『はい?』と言って、雪乃は首を傾げた。その間、ずっと目を合わせたままでいられたのは奇跡と思える。僕はそのまま、語りだした。
「人間は、考え方が変わっていく生き物だ。けれど、どうしても変わらない、変えられない部分はある。僕と君は、一緒に人生を歩んでいけるとは思えない」
『ごめん』と付け足して、僕は頭を下げた。額から流れた汗が頬を伝い、顎から滴っていく。
「僕は、自分の手で自分の人生を切り拓いていきたい。でも君は、今の生活や今後のことに満足してしまっている。人生に対する見方が、まるっきり違うんだ。この前会いに来た時、はっきりそれを感じたよ。だから、僕が心の底から君を好きになれる日は来ない」
「それは、一体……」
雪乃の声が、微かに震え始めるのが分かる。
「こんな男、最低だよね。それは自分でも分かってるつもり。君というものがありながら、他の女性に心惹かれているんだから。でも、分かってほしい。これは、策略だ。僕の両親と君のご両親が、自分たちの保身のために、僕たちを利用しているんだ。そんな人生、僕は御免だ。だから僕は、父さんを殴ったんだ」
『まさか、そんなことを』と、雪乃は言葉を失った。やはり、まだ知らされていなかったのか。
僕はもう一度、深々と頭を下げた。これが雪乃との、一生の別れになるだろう。顔を上げ、雪乃と目を合わせてから、くるりと踵を返して雪乃の部屋を後にした。最後に彼女がどんな顔をしていたのか、それはもう分からない。
※
翌日の朝。僕がこの邸宅を去る前日。
「結局、ほとんど使わなかったなあ……」
僕は制服『もどき』を自力で身に着けながら、ぼんやりそう言った。使わなかったというのは、もちろんこの邸宅のこと。明日にはもう売りに出されることや、僕の新居が学生向けの簡素なマンションであることは、説明を受けている。
特にこれといった感慨もなく、邸宅を出て一度、振り返る。僕は邸宅前面の鉄柵が、今まで僕を縛りつけていた『運命』というか『呪い』のように思われた。
胸中でそっと『さよなら』と呟き、視線を戻して、僕は通学路を歩み始めた。
しばらく進むと、同級生と思しき男子二人組が前を歩いていて、やや落ち込んだ様子で言葉を交わしていた。
「なあ、昨日の数学、分かったか?」
「まあ。でも俺は物理が不安だな」
そうか。二週間休んでしまったから、僕が勉強についていくのは大変だろうなあ。
今日から登校することは、朋美には伝えていない。別にどこで伝えようが、最終的には教室で会えるのだ。事前連絡は必要ないと思った。
というか、連絡する勇気がなかった。どんな言葉で伝えればいいのか、それを思うと憂鬱になる。自分なりに、できる範囲で片をつけてきたつもりだけれど。
ちょうど校門に差し掛かる時だった。
「あっ……」
朋美が、人待ち顔で校門前に立っていた。僕を待っていたのだろうか。まだ僕が来ていることは気づいていないようだが。僕はそっと、電信柱のそばで立ち止まった。
「何してんだ、寛?」
「うわ! き、鬼山先輩」
慌てて振り向くと、自転車に乗った先輩が、僕のすぐそばに停車していた。
「朋美のやつ、お前が心配で毎日立ってたんだぜ? 早く会いにいってやれよ」
「自信がないんです」
僕の口は、勝手に動いていた。
「僕なんかが、朋美と付き合ってもいいのかな、って」
「馬鹿言え。向こうから告白されたんだろ? それにお前は、まだ両親の過保護で支配的な教育環境から抜け出したばかりだ。自信がないのは当然だっつーの」
「はあ」
「おいおい、もっとビシッ! と返事しろ、ビシッ! と」
白い歯を見せる、鬼山浩紀先輩。それを見て、僕は心の底が少し、ほんの少しだけ軽くなったような気がした。
そうだな、僕も彼女の、桑原朋美の笑顔に迎えられたい。すると、今度は足まで軽くなったような錯覚を覚えた。
「そうですね、行ってきます!」
「ああ、ちょい待ち!」
先輩は僕の肩を掴み、引き留めた。
「な、なんですか、先輩?」
「一つだけ忠告させてくれ。大事な話だ」
「は、はい」
そして、再び笑みを浮かべながら先輩はこう言った。
『隣の彼女のバトルスペックが半端ない件』について、と。
THE END
隣の彼女のバトルスペックが半端ない件 岩井喬 @i1g37310
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