第30話【エピローグ】

 身体が暖かい空気に包まれている。いや、空気じゃない。これは柔らかい何か、布団のようなものだ。

 触覚が働き始めて短く呻き声を上げた時、はっと息を飲む気配がした。しん、とした周囲の雰囲気の中で、聴覚が復旧する。


「寛!」

「まだ起こしちゃ駄目よ、桑原さん」

「あっ、は、はい」


 桑原さんって、朋美か? そう考え始めてから、僕の五感は一気に再起動した。 ここはどこだ? ああ、恐らく病院だ。薬品臭い。これほど静か、ということは、恐らく個室なのだろう。

 そして今ここにいるのは誰だ? 僕と朋美と、残る一人は。一瞬、訝し気に思ったが、その人の声を僕は思い出した。赤坂ひとみ先生だ。僕はゆっくりと、目を開いた。


 何かを尋ねようとしたが、喉が掠れて声が出ない。そんな僕の代わりに、朋美が声をかけてきた。


「あたしは大丈夫だよ、寛。あんたもね」

「だい……じょう、ぶ……?」


 視界の隅で、誰かが頷くのが見えた。


「あたしは少しの間、車椅子で生活することにあるけど。あ、『少し』って一週間くらいだよ? 一生じゃないからね?」

「あなたは二、三日リハビリをしていれば歩けるようになるわ。もう大丈夫よ」


 赤坂先生がそっと僕の肩に手を置いた。僕はゆっくりと、上半身を起こす。僕の不安げな顔つきから判断したのだろう、すかさず朋美が


「あんたやあたしが撃たれてから、二日が経ってるの」


 と解説を加えてくれた。僕がこくり、と頷くのを待って、先生は僕の顔を覗き込んできた。


「それより、起きてもらって早々だけれど、考えてほしい問題があるの。よく聞いて」


 先生は淡々とその事項を述べた。


 一つ目は、今後の生活費の出し方について、誰が負担するのか。

 二つ目は、父がどのような罰を受けるのか。

 三つ目は、僕の手には負えないことだ。


「あなたのお父様は、殺人未遂で起訴されることは間違いないわ。あなたは正当防衛だった、ってことで」

「はあ」

「となると、あなたの生活費だけど、お母様がどうにか工面してくださるそうよ。ただ――」


 そう言いかけた先生を遮り、僕は言った。


「じゃあ、普通のアパートに引っ越しさせてください!」

「え、何ですって?」

「だから、普通の高校生や大学生が下宿しているアパートです。安上がりなんでしょう?」

「で、でもあんた……」


 心配そうに声をかけてきたのは朋美だ。


「大丈夫。使用人さんを一人、同居させてもらうから。自分で料理洗濯や、掃除くらいはできるようにするよ」

「まあ、そういうことなら」


 朋美は納得半分、心配半分という表情で俯いた。


「それで赤坂先生、父さ……いえ、父はどうなりますか?」

「どれだけ財界に手を回しても、これだけ物的証拠が残っていては、ねえ? 鬼山くん」

「鬼山くん?」


 おかしい。先輩の姿は、気がついてから一度も見かけていない。


《あ、もう入っていいっすか?》

「ええ」


 すると、個室のドアが開き、鬼山先輩が入ってきた。もう一人、神経質そうな女子を連れている。ツインテールに眼鏡を装備し、制服『もどき』のブレザーを着用していた。ああ、室井祐妃先輩だ。生徒会副会長の。


「こ、こんにちは! 副会長さん」

「そんなにかしこまることないんだぜ、朋美。で、寛! 大丈夫か?」

「はい、ありがとうございます」


 すると、鬼山先輩はウィンクしてみせた。無駄に似合う。おどけた風を装っているが、僕の意識が戻ったことに安堵し、脱力しているのが感じられた。


「だったらいいんだ。で、本題だが、祐妃! 説明してやってくれ」

「分かりましたがファーストネームで呼ぶのは止めてください会長」


 一呼吸で、しかし淡々と言い切った副会長。薄型の、両手持ちタイプの端末を取り出し、僕に向かって差し出した。そこに映し出されていたのは、件の銃撃事件の全体像だった。左端に映った父が、拳銃を構えている。右端には僕と、僕の肩に手を載せる姿の朋美がいる。僕は、身の毛もよだつような感覚が甦り、思わず背を震わせた。

 しかし、目を逸らすわけにはいかなかった。これは試練なのだ。僕が、自分や自分の周囲の人間が為したことを現実として受け入れるための。


 映像は十数秒にも、十数分にも感じられた。朋美が倒れ、僕が振り返り、父が語りだす。やがて僕が朋美を横たえ、一気に父の元へ駆け出した。一瞬立ち止まったように見えたのは、僕が撃たれた瞬間のことだろう。

 しかし僕は、構わず再びアスファルトを踏みしめる。そして跳び上がり、思いっきり父をぶん殴った。そこで、映像は停止された。


「こんな映像、どこで……?」


 僕が副会長に尋ねると、『装甲車のカメラを回収したんだ』と先輩。


「もちろん加工はしていない。決定的証拠として提出できるぞ」


 そう言って、先輩は僕の肩を叩こうとして止めた。僕が浮かない顔をしていたからだろう。得意気に語る先輩の気持ちは分かる。だが、この映像は早い話、僕の父が殺人未遂犯であることを証明するものだ。

 いくら僕や朋美を殺そうとした人間だとはいえ、家族は家族だ。僕は、心がぐしゃぐしゃに潰されていくような思いだった。まさか、あんな父親の言動にこれほど心が揺さぶられる時が来ようとは。

 僕は、冷たいため息をついた。


「桐山寛くん、あなたのお父様は保釈金ですぐに自由になって研究職に戻るでしょうが社会的信用はガタ落ちでしょう、あなたがこの動画をネットにアップしたりテレビ局に持ち込んだりすれば」


 副会長が、淡々とした口調で述べる。


「僕に、この映像を人質に使えと?」

「使えとは言っていません桐山くん。飽くまで使用可能だというだけです」


 僕は映像を初めから再生する。

 ちょうど個室の窓から日光が差し、画面が見づらくなる。いや、見づらくしているのは僕の心の方か。


 どうするつもりなのかと問いたげな先輩、副会長、朋美、それに赤坂先生。僕は四人とそれぞれ目を合わせてから、端末に目を下ろした。そして一言。


「ありがとうございます、室井副会長。存分に使わせてもらいます」

「寛!」


 叫んだのは朋美だ。きっと僕が行おうとしていることを、卑怯なことだと思ったのだろう。父親の足を引っ張るようなことを。だが、それは違う。

 今更、父の立場などどうでもいい。これからこの事件を隠蔽するなら、それでも構わない。ただ、ここにいない『彼女』には知っておいてほしい。


「副会長、この端末を退院翌日までお借りできますか?」

「構いませんが」


 僕は簡単に礼を述べ、皆が去るのを待った。赤坂先生に車椅子を押された朋美が、少し不安げにこちらを見る。僕は軽く手を挙げ、大丈夫だと視線で伝えた。

 個室のスライドドアが、プシュッ、という軽い空気音を立てて閉まる。インターフォンは鳴らない。誰も戻ってはこないようだ。僕は耳を澄まし、この個室が完全防音であることを確認した。それから、傷に響かないように、ゆっくりとした動作でうつ伏せになった。それからすっと息を吸って、吐き出した。


「うわあああああああ!!」


 僕の口から発せられたのは、まさに慟哭だった。口からだけではない。喉から、腹の底から、果ては足の先から。全身を震わせた叫びが、僕の周囲の静寂にビシリ、とひびを入れ、砕いていく。


「なんで!? どうしてなんだよ、親父!!」


 普段の僕なら、父を『親父』などとは呼ばないだろうし、そう呼んだ自分に驚かされただろう。今度こそ、僕は冷静ではなかった。冷静でなどいられるものか。僕は叫び声を上げながら、バンバンと枕を殴りまくった。右腕はテーピングされていたが、構わなかった。


《桐山さん、どうしましたか?》


 インターフォンから声がした。看護師のものらしい。腕を引いた時に、ナースコールのボタンを押してしまったのか。

 それすら無視して腕を振り回していると、『緊急解放』という機械音声が耳に入った。


「桐山さん、落ち着いてください!」

「うわあ! 放せ! 放せっ!」


 両腕を引っ張られているうちに、ふっと全身の力が抜けた。鎮静剤を打たれたようだ。

 これ以上の抵抗は、無意味だ。そう思った僕は、脱力していく四肢の重さに任せて、再び暗闇へと戻っていった。

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