第11話

 これだけだったら、ただの笑い話で済むだろう。だが、即座に動いたのは、誰あろう未来だった。

 僕にアッパーを喰らわせた朋美の腕を、パシリと叩いて落としたのだ。


「……何をするの? 未来さん」

「あなたにこれ以上、寛くんに手出しはさせないわ、朋美さん」

「ふぅん?」


 ここまでが、僕が背をしたたかに打ちつけるまでに聞こえてきた会話。仰向けの姿勢から立ち上がる頃には、既に未来と朋美は臨戦態勢に入っていた。


「っておいおいおい、ガチで喧嘩すんなよ!」


 先輩が割り込むが、殺気のこもった視線で二人の女子に貫かれ、すぐさま沈黙する。

 邪魔者はいなくなった。教室でのファイトから数えて二回目のゴングが、今鳴らされたのだ。


 未来がボクシングの構えを、朋美が空手の構えを取る。


「はっ!」


 気合のこもった吐息と共に、朋美が一歩踏み込んだ。足払いをかける。対する未来はバックステップでこれを回避、同時に引き絞った腕で朋美の顔面を狙う。

 身を横に逸らした朋美は、かわしがてらに未来の横を取る。未来から見て、すぐさまサイドステップをするのは難しい。そこで朋美が放ったのは、未来の頭部を横薙ぎにするハイキックだ。

 未来はしゃがみ込み、これをかろうじてかわす。風圧で千切れた未来の長髪が、ふわりと空中に散る。

 それにしても、スク水vsセーラー服とは。なんとも奇妙な取り合わせである。


「な、なあ寛、これって、本当にJKレベルの喧嘩なのか?」

「僕に訊かないでください」


 それからも、二人は互いの攻撃を回避し、受け流し、時にはガードしながら、戦い続けた。

 サマーソルトを繰り出した朋美のつま先を回避した未来が、ミドルキックを繰り出す――と見せかけて、朋美の足元を狙った。


「うあ!?」


 ついに転倒する朋美。そんな彼女を前に、未来は跳び上がった。

 僕ははっとした。未来はこの前、不良の臓器に大打撃を与えた踏みつけを行うつもりではないのか?

 相手が不良ならまだしも、朋美は僕の大切な友人だ。一生残るような傷を負わせるわけにはいかない。


「未来、よせっ!!」


 すると、既に空中にあった未来は、身体を思いっきり捻って体軸を逸らした。そのまま落下して、プールにドボン。


「朋美、大丈夫か!」

「未来さん!」


 僕と先輩は、それぞれの女子に向かって駆け出した。これはもう、とばっちりを恐れて距離を取っている場合ではない。


「朋美!」

「ふっ!」


 僕が慌ててのけ反ると、朋美は両腕の力だけで跳び上がり、きちんと着地した。

思えば、朋美がここまで戦っていられたのは奇跡に近いのではあるまいか。不良共をなぎ倒していった未来を見ていた僕は、そう思わずにはいられない。

 しかし、そんな僕の胸中も知らずに、朋美はグーパンチを僕の左頬に見舞った。痛くはなかったが、軽くよろめいてしまう。


「邪魔しないでよ!」


 左頬を押さえつつ、僕は朋美と目を合わせた。


「邪魔、って……」

「私は未来と戦ってたの! まだ勝機だってあったのに! どうして彼女を止めたのよ!」

「なんだって?」


 その言葉に、僕でもいい加減、堪忍袋の緒が切れた。


「朋美、あのままだったらお前は死んでたかもしれないんだぞ!」

「え?」


 突然言葉で攻勢に出た僕に、流石の朋美も怯んだようだ。一、二歩後ずさる。


「いや、死にはしないだろうけど……。大怪我はしていたはずだ!」

「そ、そんなの、やってみなくちゃ分からないじゃない!」


 直後、パシン、といい音がプールに広まった。自分が朋美を引っ叩いたのだと気づくまでに、数秒の時間を要した。

 驚いたように、真っ直ぐ僕と目を合わせる朋美。


「あ、あんた……」

「やってみてからじゃ遅いんだよ! 大怪我してからじゃ……。流動食しか食べられなくなってもいいのか? 寝たきりになってもいいのか? 違うだろう? 朋美、君はもっと冷静になるべきだ」


 目を見開き、口元を動かして何かを語りだそうとする朋美。しかし、僕はそんな彼女に付き合うつもりはなかった。


 僕は相当なわがままなんだろうな、と思う。自己中心的な度合いが過ぎるのだな、と。

 何故なら、未来の跳躍から繰り出される踏みつけの破壊力を知っているのは僕だけなのに、何の説明もなく朋美と未来を戦わせてしまったから。

 そもそも、朋美が未来に敵うはずがないのだ。それなのに、どうして喧嘩が始まる前に仲裁に入らなかったのか。


 もしかしたら、僕が朋美に憧れているからかもしれない。これもまた『異性として』ではなく『友人として』だけれど。

 独立孤高で我が道を行く、桑原朋美。そんな彼女が未来に負けるはずがないと、それを証明してほしかったのだ。


「未来さん、大丈夫かい?」


 いつになく紳士的な口調の先輩を無視して、未来が歩いて来る。自慢の長髪もびしょ濡れだ。未来は髪をオールバックにするかのようにかき上げながら、僕の前で足を止めた。


「どうして私の戦いを止めさせたの? 寛くん」

「君は実直すぎるんだ」


 僕は見下ろされながらも、しっかり未来の目を見て答えた。


「確かに、君にはいろいろと助けてもらって、感謝しているよ。でも、君は極端なんだ。不良に襲われた時だって、もう少し手加減できたんじゃないか?」

「手加減すれば、隙が増える。あなたの身を危険に晒すわけにはいかない」

「ったく……」


 僕は額に手を当てて、それからがばっと顔を上げた。


「どうしてそんなに僕にこだわるんだよ? 使用人やボディガードの助けがなければ何もできない、ただの勉強オタクだぞ? 優秀で守るに値する人なら、他にももっと――」

「命令なんです」

「そうそう、命令されて……って、え?」


 め、命令? なんの話だ? 

 疑問が僕の顔に出たのは見えただろう、しかし未来は


「……いえ、何でもない。忘れて」


 と言って、未来は僕に背を向けた。その直前、彼女の瞳が無機質な色に染まったのを、僕は垣間見た気がした。


         ※


「それで、結局勝負するわけか」

「みたいですね」


 僕と先輩は呆れ半分、諦め半分で朋美と未来の二人を見つめていた。いや、少しばかりの驚きもあったかもしれない。あれだけの喧嘩をした後なのだ。まさか当初の勝負を続行するとは思わなかった。

 朋美と未来はプールサイドを歩き、跳び込みの体勢に移る。


「じゃあ、僕が合図をしまーす」


 ゴーグルをかける朋美と、既に手の先を足元に遣っている未来。朋美もまた、飛び込みの姿勢を取る。


「よーーーい、ドン!」


 二人は勢いよくプールに飛び込んだ。が、同じ体勢だったのは着水するまで。滑らかにクロールを始める朋美の横で、未来はストン、とプール底に足を着いたのだ。さっきの跳び込みのポーズに意味はなかったのか。見る見る間に、朋美はどんどん距離を離していく朋美。


「ちょ、未来さん!? 頑張って泳いでくださいよぉ!」

「み、未来? 一体何を――」


 先輩と僕が声を掛け合う、その時だった。未来はゆったりと、身体を浮かべて水平姿勢になった。平泳ぎを始めるかのようなポーズだが、それでクロールに追いつけるのか?

 僕たちが驚いたのは、まさに次の瞬間だった。凄まじい勢いの水飛沫が、未来の足先から発せられたのだ。ドオッ、という音が遅れて聞こえてくる。足先に爆弾が仕掛けられていたかのようだ。


「未来!」


 顔を拭いながら、僕は叫んだ。見れば、未来はまるで魚雷のように水中を飛んでいた。あっという間に朋美との差は縮まり、折り返したのは同時。再び爆発的勢いを発揮して、未来は折り返してきた。微かに振り返り、そして唖然とする朋美の顔が見える。

 方法は分からないが、超人体質の未来のことだ。きっと颯爽とゴールしてしまうだろう。どちらに勝ってほしいのかよく分からないまま、僕は二人の姿を見守った。


 が、しかし。

 唐突に、水飛沫が止んだ。


「あれ? 未来?」


 僕は声をかけてみたものの、未来はぴたりと停止して動かない。惰性だけでプールの水面を漂っている。


「はっ、はっ、はっ、はっ」


 やや後方を気にしながらも、朋美が息をつきながら綺麗なフォームでゴールする。


「はあ、はあ……。未来は? 一体どうしちゃったの?」

「あそこで止まってるんだけど」


 水泳帽を脱ぎながら、振り返る朋美。すると僕と朋美の視線の先で、未来はぶくぶくと沈み始めた。


「ちょっ、待てよ! 未来!」

「未来さぁん! 溺れちゃまずいよぅ!」


 僕は自分が金槌であることも忘れて、思いっきりプールに飛び込んだ。未来の顔面と腰元に手を当て、浮き上がらせようとする。が、


「!?」


 重い。滅茶苦茶、重い。

 確かに、衣服が水を吸って重くなっているのは分かる。しかし、これほどとは。まるで鉄の塊を持ち上げようとしているかのようだ。

 同時に、これほど重いことに、ある違和感を覚えた。なんだか、とても無機質なものを持ち上げようとしている気持ちだ。未来は人間であるはずなのに。

 僕が悪戦苦闘していると、ばちゃばちゃと音を立てて未来が手足を動かし始めた。復活したのか。


「未来! 大丈夫か!? 取り敢えずプールサイドに上がるんだ! 先輩、手伝ってください!」

「あ、お、おう!」


 半ばパニックでおろおろしていた先輩に声をかけ、僕は未来をなんとかプールサイドに持ち上げた。

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