第19話

「私から説明するわ、寛くん。どうして私があなたのことをよく知っていたのか」


 突然の展開に、僕は頭がついていかなかった。しかし、先ほど頭に浮かんだ疑問の二つ目、『未来が何故関係しているのか』が解き明かされようとしているということは感じられた。


「私はあなたの気を引いて、魅了するために送り込まれたのよ」

「何だって?」


 僕は自分の声が、思いの外震えていることを感じた。未来は、怯える小鳥にそっと手を差し伸べるような雰囲気を漂わせつつ、自分の受けた『命令』の内容を語り始めた。


 標的、すなわち僕に、自分への好意を抱かせること。

 告白させ、OKの意を示すこと。

 卒業直前に僕との関係を解消し、『自分には雪乃しかいない』と僕に思わせること。


「これが私の任務。私の受けた命令。どうかしら? 今までの私の言動に合点はいった? 考えたのは赤坂先生だけれど」

「……」


 ぐうの音も出なかった。だが、待てよ。

 単に僕に好意を抱かせるだけにしては、妙な言動を取りまくってはいなかったか?

 鼻血の件、プールの件、アイスクリームの件。普通の人間なら、あんな言動を取らないだろう。

 未来には、あまりにも『常識』というものが欠けている気がする。


「ご両親からの依頼を解釈して、私からあなたに忠告するわ」


 未来の言葉を繋いで、赤坂先生はすっと照明の元に身体をさらし、告げた。


「桑原朋美さんのことは忘れて、華藤雪乃さんのことだけを考えなさい。そうすれば、全てが上手く収まるから」

「それは……」


 僕はカッと目を見開いた。


「それはあんたらの勝手な都合だ! 僕が好きなのは朋美なんだ! その気持ちを『大人の都合』で治められると思ったら大間違いだぞ!」

「あら、本当にそうかしら?」

「何だって?」


 未来が半周して、僕の前方に回り込んできた。香水の甘く、上品な香りがする。


「本当は迷ってたんじゃないの? 私と朋美さん、どちらが好きなのか。断言できる? 寛くん。私よりも朋美さんの方が絶対に好きなんだ、って」


 はっとして、僕を見上げる朋美。僕は『大丈夫だ』と朋美に伝えたかったけれど、全身が固まってしまって声など出せなかった。

 朋美とて分かってはいるのだろう。僕が自分を選ぶか、未来を選ぶかは、際どいところであると。だが、少なくとも僕は朋美を選んだ。タイミングが味方したのかもしれないが。

 それに、こんな裏事情があったのだとすれば、僕はもう未来に恋心を抱くことなど不可能だ。赤坂先生を心から信用することも。


 それでも発声できない僕をしばし見つめてから、未来はかぶりを振った。


「そうね。突然こんな事実をひけらかされては、ショックも大きいわよね」


 未来は『でも』と言葉を繋ぎ、述べた。


「これが大人のやり方。世間での立ち回り方なのよ。いい加減分かってもらえないかしら?」


 苛立ちも憐れみも悲壮感もない、捉えどころのない口調と表情で語る未来。

 ああ、もう駄目だ。これではもはや、戦いようがない。単に理論武装していない、というだけではない。バックボーンが違いすぎる。

 未来も雪乃も赤坂先生も、三人はそれぞれ僕の両親の狙い通りに、いわば僕を嵌めるために行動してきたのだ。そしてその両親という存在に、僕の反撃が通用したことはない。ただの一度も。


 ぶるぶると、朋美の手を握った腕が震えだす。自分でも自分がこれからどうなるのか、さっぱり分からない。未来や先生に跳びかかるのかもしれないし、滅茶苦茶に手足を振り回し始めるかもしれない。

 だんだん視覚が白くなっていき、何も考えられなくなっていく。僕は自分の我慢が限界値を迎えるのを待つばかりだった。


 次の一言で僕はキレる。そう思った。しかし、次に起こったのは誰かの発声ではなかった。


「ッ!」


 朋美が腕を振りほどき、部屋の出口に向かって駆け出したのだ。

 彼女のショルダータックルで、観音扉は呆気なく開いた。扉の向こう側で、使用人やボディガードたちが慌てるのが見える。


「朋美! 待って!」


 僕も慌てて追いかけ始める。未来も先生も、僕を引き留めようとはしなかった。

 途中、コケなかったのは奇跡というべきだろう。目を擦りながら走っていく朋美は、いつもの爆走状態にはほど遠く、この邸宅の入り口で僕に追いつかれた。


「朋美!」


 僕は思いっきり腕を伸ばして朋美の肩に手を伸ばした。が、


「触らないで!」


 と一喝され、すぐに手を引っ込めた。


「寛、あんたはあたしと付き合うってことをOKしたんだよね? 雪乃っていう許嫁がいるくせに!」

「僕は雪乃より朋美の方が好きだ!」


 嘘偽りはない。信じてくれ。僕は切にそう願ったが、そんな情けない願いが通じるはずもなかった。


「どうせあたしは遊び相手、それ以上でもそれ以下でもない、ただの友達。そうなんでしょう? それなのに告白を受け入れるなんて、あんた、何様のつもりなの? とんだ自己中の、ロクでなしの、女ったらしじゃない!」

「違う!」

「どう違うのよ!」


 振り返った朋美の瞳は、焦点が合っていなかった。いや、違うな。涙の膜が張られて、光が屈折しているのだ。それで眼球が歪んで見えるのだろう。

 そんな状態でも、朋美は言葉を叩き込み続けた。そしてその一打一打が、僕の心をえぐっていく。


「あたし、もうあんたのことが分からない……。信じていられないよ、こんなに好きなのに……。もっと早く許嫁のことを話してくれていたら、あんたのことなんて好きにならずに済んだのに!」

「口止めされていたんだ! 両親に――」

「両親? またご両親の話を持ちだすの?」


 はっとした。またもや僕は、両親に敷かれたレールの上を、全速力で走りだそうとしている。それでは、両親からの理不尽な要求に従うことになってしまうではないか。今回も。


「ああもう! 僕の両親なんて関係ない!」

「はあ? 今『両親に口止めされている』って言いかけたくせに!」


 僕は思いっきり、それこそ朋美の全身全霊のこもったストレートを喰らったような気がした。そして想像したのは、それはそれは恐ろしい考えだった。


 もしかして僕は、両親への反抗心を強固にするために、朋美の恋心を利用しようとしたのではあるまいか?


 くらり、と視界が揺らいだ。

 僕は一体、なんということをしてしまったんだ。朋美の告白を断ったのならまだしも、受け入れることで雪乃を、ひいては両親を裏切ろうとしていたなんて。朋美の、誠心誠意の告白を、両親を裏切るためのネタにしようとしていたなんて。


「あ、あぁ」


 僕は床に膝をつき、両手を、そして額までをもカーペットに擦りつけた。

 もう何も言うことはできない。八方塞がりだ。


「桑原様、お帰りになられますか?」

「……ええ」


 使用人が朋美に声をかけた。応じる朋美。

 本当なら、僕も帰されて当然なのだろうが、今の僕の様子を見て、誰も声をかける気にならなかったらしい。代わりに、玄関そばの扉が引き開けられるところだった。客間のうちの一つ、といったところか。


「桐山様、お休みになられますか?」


 その時、僕がなんと答えたのかは記憶にない。気がつけば、使用人に両肩を支えられ、客間のベッドに腰を下ろさせられるところだった。


「僕は、最低だ」


 誰もいなくなった客間で、僕は呟く。正直、死にたいと思った。


         ※


「桐山寛様、ご自宅に到着です」


 そう声をかけられたのは、その日、夕焼けが眩しい頃合いのことだった。僕は全身脱力状態で、のろのろと正門を抜け、邸宅に入って自室へと向かった。

 ゆっくりとドアを開ける。ベッドには、きっちりとメイキングされたシーツと掛布団が載せられている。

 昨日、この場所で、僕は朋美を利用し、雪乃を裏切った。

 そんなことを考えながら、僕はばすん、とベッドにうつ伏せで横たわり、枕の下に両手を突っ込んだ。


 両親の呪縛から逃れることは、一生できない。その事実が眼前に突きつけられたようで、僕は凄まじい心細さを覚えた。


 誰か。誰か助けてくれ。朋美でも未来でも雪乃でもない、誰か。

 僕は、嗚咽が漏れてくるのを留めることができなかった。肩が震え、肺は振動し、喉は隆起と沈降を繰り返す。全身が、意志に反して痙攣する。呼気までもが、異様な揺れを覚える。


 ん? 待てよ。僕の身体以外に震えているものがある。これは、スマホか?

 多少の驚きを伴い、全身の震えが一瞬収まった。僕はスラックスのポケットに手を入れ、スマホを取り出した。


「あ……」


 そこには、よく見知った人物の名前が表示されていた。鬼山浩紀、と。


「も、もしもし!」

《お、やっと出たな、寛! バイト先の遊園地で、一日遊び放題のチケットが手に入ったんだ。俺はその日、そこでバイトだから、未来ちゃんとか朋美とかと遊びに出て来たらどうだ?》

「せ、先輩、その前に相談したいことが――」

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