第18話

 近づくと、こちらからの操作もなくインターフォンが起動した。ピロン、という音と共に、照明が点く。


《お待ち申しておりました、桐山寛様。桑原朋美様。どうぞ、お入りください》


 背後からザッ、という床が擦れる音がする。見れば、ボディガード二人が姿勢を正し、頭を下げてからセダンに乗り込むところだった。


「あ、ちょっと! あんたたち!」

「大丈夫だよ、朋美」


 僕は朋美の肩に手を載せた。

 

「この家にいるのは、僕らを傷つけるような連中じゃない」


 優しくしてくれる連中でもないけれど。


「信じてくれるかい?」


 朋美は数秒、僕の目を覗き込んでから、ぐっと頷いた。

 それを確認した僕は、ゆっくりと扉の前に出る。自動ドアがスッと開いて、長く幅のある廊下が目に入った。


 最後に訪れた時と、特に変わりはない。使用人たちが両端に並んでおり、同じ角度で腰を折っている。すっと袖を引かれる気配に振り返ると、朋美が目を左右に遣りながら不安げに様子を窺っていた。そうか、やはり朋美はこういう環境に不慣れなんだな。

 僕は朋美の手をそっと握ってやった。同時に掌から、熱い何か、心の波とでもいうべきものが流れ込んでくる。今まで感じたことのない感覚だ。


「大丈夫だ。朋美より強い奴はいないよ」


 朋美は無言で手をぎゅっと握ってくる。なんとか了解の意を示したらしい。

 シャンデリアがいくつも吊られた廊下を進んでいくと、T字路のような場所に出た。その正面の突き当たりにドアがある。使用人が二人がかりで、観音扉のようにそのドアを引き開けた。

 やっぱり『彼女』はこの部屋を愛用していたか。

 微かに足を震わせる朋美の手を引いて、僕はゆっくりと部屋に入り、『彼女』の前に進み出た。


「久しぶりだね、雪乃」


 その声に、『彼女』――華藤雪乃はゆっくりと顔を上げた。

 部屋の中央のゆったりとしたソファに腰を下ろし、ハードカバーを読んでいたらしい。すぐ傍の低いテーブルに本を置き、こちらをゆっくりと見据える。


「あら、寛さん」


 そう、雪乃は僕を『さん』づけで呼ぶ。理由は単純。彼女が僕の許嫁だからだ。

 ゆったりとした所作で、小首を傾げて穏やかな笑みを浮かべる。三歳年下の僕の許嫁は、数年ぶりに会ったというのに、まとう雰囲気は変わっていなかった。


 もし瞬きせずに読書に熱中していたら、精緻な西洋人形と変わらない。そう思わせるだけの落ち着いた美貌を、彼女は持っていた。透き通るような白い肌に、青いサファイアのような瞳。すっと通った鼻筋に、上品な薄めの唇。

 もしこれが初対面だったら、僕は声をかけることなどできなかっただろう。


「お久しぶりね、何年ぶりになるかしら?」

「さあ、少なくとも二年、いや、三年ぶりだろう」

「あら……」


 雪乃は口元にゆっくりと手を当てた。床に届くような豊かな金髪が、緩やかに揺れる。

 

「で、そちらの方は?」


 萎縮しきった朋美を見つめ、雪乃は問いかける。


「彼女は桑原朋美。僕の――僕の恋人だ」


 音もなく、雪乃が立ち上がった。


「寛さん、今、何て……何ておっしゃったの?」

「ここにいるのは、僕の恋人だ」


 すると、雪乃は震えるような長い息をして、貧血でも起こしたかのようにゆらゆらと身体を揺らし、ソファに腰を下ろした。否、腰を抜かしたところに、偶然ソファがあった、と言うべきか。

 雪乃の顔色は、この穏やかな照明の中でも青白くなっているのが分かる。四肢は脱力し、西洋人形が顔以外ゾンビになってしまったかのように見えた。


「ねえ、この人は誰なの?」

「僕の許嫁、華藤雪乃だ」

「あっ……」


 朋美も気づいたようだ。雪乃の名前を聞いて、思い出すところがあったのだろう。もっとも、僕に許嫁がいることは世間には伏せられていたので、朋美が今まで気にしてこなかったのも無理はないが。


 僕は勇気を奮い立たせて、言葉を紡ぐ。


「雪乃は許嫁だ。けど、僕は朋美の方が好きなんだ。どうして今日、ここに連れてこられたのかは知らないけれど、ちょうど意志表示ができてよかった」


 きっと華藤家の誰かが、僕の言葉を聞いているはず。


「誰かいるんでしょう? 出てきて話をしてくださいよ。僕と朋美を無理やり連れてきたわけを、教えてください」

「ええ、そうね」


 僕の声への返答は、思いがけず近くから聞こえた。と同時に、僕はその声の主に驚いた。


「あ、赤坂ひとみ先生……」


 スパイよろしく、赤坂先生が天幕の裏から出てきた。グレーのスーツに白いシャツ姿で、学校で見かける白衣姿とはだいぶ印象が違う。


「あら、そんなに意外だった? 桐山くん」

「どうしてあなたが関わってるんです? まさかあなたは――」

「うん。あなたの推測は当たっていると思うわ」


 僕の推測。簡単に言えば、赤坂先生には僕の両親の息がかかっている、ということだ。詳しいことはよく分からない。だが、僕と雪乃が結婚することで、両家の繁栄は継続され、ウィンウィンの関係になるそうだ。僕と雪乃の気持ちは関係ない、という一点を除いて。


 しかし、雪乃は僕が相手でもよかったらしい。否、相手は僕だけだとばかり思っていたらしい。


「これは女の勘なのだけれど」


 先生が口を開く。


「高校生になるにあたり、あなたも子供から大人になるでしょう? 余計な虫がついたら大変だわ。だから介入させてもらったのよ、此崎未来を使ってね」


 僕が思ったことは二つ。

 一つ目は、朋美のことを『余計な虫』と言ったことに対する怒り。

 二つ目は、どうしてこの場で未来の名前が出てくるのか? という疑問。


「謝ってください。朋美に。『余計な虫』扱いなんて酷すぎる」

「あら、だったらあなたも重罪人よ? 桐山くん」

「何?」


 鋭く切り返してきた先生に、僕は疑問を呈する。


「華藤雪乃さんというものがありながら、勝手に恋愛をするなんて」

「そんなの勝手でしょう!? 誰が誰を好きになったって……!」


 語気を荒げる僕を見下すようにしながら、先生は言った。


「それでは困るのよ。生憎、あなたは桐山家の一人っ子だもの。これは運命よ、桐山くん。大人の言うことは素直に聞きなさい」


 何? 大人の言うことが運命だと? 絶対だと?


「ふざけるな!!」


 僕は生まれてから、一番のボリュームで叫んだ。すると驚いた様子もなく、先生はスマホを取り出した。


「ちょっと落ち着いて。映像はないけどね」


 殴りかからんばかりの僕の肩に手が載せられる。朋美だ。珍しいな、いつもと役割が逆じゃないか。


 聞こえてきたのは、僕と朋美の会話だった。屋外で録音されたのか、風音らしきノイズが時折混ざっている。屋外での会話――まさか。

 その『まさか』だった。


《好きだよ、寛。つき合って》


 はああ、と息を漏らす雪乃。さっと両手で顔を覆ってしまう。そんなことを気にもかけずに、


「それと、これを見て頂戴」


 ひょいっと放り投げられた先生の携帯端末。スマホより頑丈そうな、しかし大きさはさして変わらない。奇跡的に、不器用ながらに僕はそれをキャッチすることに成功し、画面を覗き込んだ。


《今日はありがとう。嬉しかった。お付き合いさせてください》

《こちらこそ》


 これは、僕と朋美がLINEで遣り取りした文面ではないか。


「ストーカーしてたのか? 僕たちを?」

「ええ」


 先生は腕を組んで頷いた。さも当然、といった態度だ。悪びれる気配もない。


「あんた、それでも教師か!」

「いえ。本業は、あなたのご両親に雇われたエージェントよ。まあ、エージェントなんてカッコいいことをしている自覚はないけれどね」


 ゆっくりと肩を竦める先生。そんな彼女に向かい、僕は思いっきり携帯端末を放り投げた。思いっきり狙いが逸れ、雪乃のそばを通った端末は、ベッドの上に落ちた。『そのくらいじゃ壊れないわ』と、先生が呟く。


 荒い僕の息遣いだけが、この部屋に響く。すると唐突に、か細い声が上がった。


「そんな、寛さん……」

「雪乃……」


 雪乃はゆっくりと立ち上がり、僕に歩み寄ってきた。ゆっくりと、長いスカートの裾を踏まないように。


「わたくしというものがありながら、他の女性を選ばれたのね」


 僕よりも頭一つ小さな雪乃。彼女は僕を引っ叩くかに見えて、そっと頬に手を当てた。


「ちょ、何を……!」


 すると、なんの躊躇いもなく、雪乃は僕に口づけをした。


「!?」


 今度は朋美が息を止める番だった。これが実質、僕のファーストキスになってしまったのだが、何の感慨もない。

 目の前で涙を湛える雪乃。


「雪乃、僕は君の所有物じゃない。もちろん、僕の両親にも所有されるつもりはない。すまないけれど、僕は自分の意志で好きな人を選ぶんだ」


 その時だった。この部屋のドアが開いたのは。


「私の前でもそう言えるの? 寛くん」


 僕はゆっくりと振り返りながら、新参者の名を告げた。


「――此崎未来」

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