第17話

 その後、どうやって帰宅したのかは覚えていない。ボディガードが飛び出してこなかったところを見るに、一応交通法規は守ったらしい。

 夕飯はキャンセルして、自室にこもる。『こもる』というほど狭い部屋ではないのだけれど。それから、またいつものようにベッドに、しかし今日はうつ伏せになって横になった。


「はあ……」


 枕に突っ伏する。右手にはスマホを握り、左手は枕の下に突っ込んで自分の額を載せ、目を閉じる。真っ暗な視界を黒板に見立て、なんと伝えるべきかを考える。それはそれは必死に考える。


 相手は幼馴染で小学校、中学校と一緒だった桑原朋美だ。女性の方が勘は当たるというから、僕については極めてよく知っているものとみて間違いないだろう。少なくとも、僕が朋美を知っている以上に。

 だから、『YES』ということを明確にさえできれば、他の言葉は不要だろうとは思う。しかし――。


 それを知ったら、未来はどう出るだろう。こればっかりは、まったく見当がつかない。

 昨日から今日にかけて、謎のテンションアップを図った未来。未来が僕に好意を抱いてくれているのは、なんとなく分かる。分かるが故に危惧するのだ。また朋美と未来が喧嘩(という名の白兵戦)を始めたらどうしよう、と。僕に止められるレベルではあるまい。


 いや、それは仕方のないことだ。二股をかけることができるほど、僕は落ちぶれてはいない。度胸がないと言うのかもしれないが。


「よいしょ……」


 僕は身を起こし、スマホでLINEを開いた。そして打ち込む。


《今日はありがとう。嬉しかった。お付き合いさせてください》


 意外なほどあっさりと言葉は出てきたし、指も滑らかに動いた。


「送信、っと……」


 するとすぐに返信があった。


《こちらこそ》


 そんな、自分から誘っておいて『こちらこそ』というのも変だろう。しかし、これで互いの意志表明はできたわけだ。


「はあぁぁぁあ……」


 僕は口から魂が抜け出て行ってしまうかのような錯覚に襲われた。誰に見せるわけでもなく、やれやれと首を振る。そして、これからの過度な期待と不安を流し去るべく、退室してバスルームに向かった。


         ※


 翌日。


《お坊ちゃま。お坊ちゃま》


 部屋の壁に備え付けられたインターフォンが鳴り響く。使用人の声だ。


「ん……」


 僕は割合、早く覚醒した。『はぁい』という間抜けな声を上げつつ、眠い目を擦る。時計を見ると、午前五時ちょうどだった。いくら何でも早すぎる。というか、そもそも使用人に起こされるということ自体、極めて異常だ。


 僕はパジャマのまま、あくびを噛み殺しながらインターフォンへと向かった。


《お休みのところ申し訳ございません。詳しくは彼らから後ほど》


 彼ら? 僕がクエンチョンマークを浮かべていると、インターフォンにボディガードの姿が映った。


《寛様、非常事態です。ご同道を》


 サングラス越しに、そしてインターフォンすらも通して、鋭い視線が僕に注がれる。


「何があったんですか?」

《それは後ほど》


 使用人と同じことを言うボディガード。これはもしかして、僕の両親が動いているということではあるまいか? 僕に会おうとしている、とか?

 使用人やボディガードに命令を下せるのは、僕と両親の三人だけだ。両親には本当に顔も会わせたくないというのに……。だが、無理に反抗するのも大人げない。


「分かりました。着替えてからすぐに出ます」

《かしこまりました》


 そうして僕はインターフォンの電源を切り、もそもそとパジャマを脱ぎだした。


 ボディガードたちは、僕の部屋の前の廊下、その両側に整列していた。左右に四人ずつ。今更ながら、こんなに多くの人間に守られていたんだなあと、情けなさを覚える。僕が進み出ると、屋内であるにも関わらず、ボディガードたちは防御陣形を取った。ぴりぴりとした空気が、僕の胸中を掻き回す。


「どこへ行くんですか?」

「……」

「何か危険なことでも?」

「いえ、それはございません」

「もしかして、うちの家系に関わることですか?」

「……」


 なるほど。どうやら『彼女』のおでましらしい。桑原朋美でも此崎未来でもない、第三の刺客とでも言うべき『彼女』。出会うとすれば、数年ぶりになるだろう。


 外に出ると、綺麗な朝焼けが僕たちを照らし出した。そうか。午前五時といっても、こんなに明るくなる季節になっていたのか。そんなことを、ぼんやり考える。

 用意されていた車は、いつものロールスロイスではなく、白いセダンだった。何の変哲もない、滑らかな車体。一つ違和感を覚えたのは、なにやら後部座席で揉め事が起こっているらしい、ということだ。声は車内で反響してよく聞こえない。


 すると、先行していたボディガードが後部座席のドアをノックした。


「寛様をお連れした。ロックを解除してくれ」


 ガチャリ、と施錠が外される。


「さあ、寛様、こちらへ」


 こちらへ、と言われても、そこは後部座席だ。誰かが暴れているようなのだが、危険なのではないだろうか。恐る恐る覗き込んでみる。

 そこにいたのは、パジャマ姿で猿轡を噛まされ、後ろ手で手錠をかけられた朋美だった。


「とっ……!」

「……!」


 向こうも驚いたのか、大きく目を見開く。それを、車内で待機していたボディガードが押さえつけている。


「おい、止めろ! その子は僕の友達だ! 手荒なことをするな!」


 僕は思いっきり叫んだが、ボディガードは態度を改めない。ああ、そうか。よく見れば、一方的に朋美が暴れているものだから、ボディガードは自衛のために腕を組んでいるだけだ。

 すると、そのボディガードは後部座席から出てきて、『さあ、寛様』と言いながら僕を促した。後部座席に他の人はおらず、運転席と助手席には、それぞれボディガードが一人ずつ。


「寛様、これを」


 振り返ると、目の前に鍵が差し出されていた。手錠を外すためのものだろう。するとそのボディガードは、コンコンと助手席の窓を叩いた。


「よし、行け。合流地点はB-64だ」

「B-64、了解」


 バタン、と扉が閉められ、セダンは緩やかに発車した。


「待ってろ朋美、今手を自由にしてやるからな!」


 僕は動揺しながらも、震える手で鍵を手錠に差し込んだ。回すと、カチャリと素直な音を立てて、手錠は外れた。朋美はすぐさま、自分で腕を首の後ろに遣って猿轡を外す。そして、


「寛ぁあぁあ!」

「うわっ!」


 突然僕に抱き着いてきた。


「夜中に突然インターフォンが鳴って、なんだろうと思ったらこいつらがあたしの部屋に入ってきて……。そのうち三人は鍋とヤカンと掃除機で気絶させたんだけど、四人目に掴まっちゃって、猿轡と手錠をされて……」


 そうして無理やり連れてこられたのか。しかし、何故だ?


「これは僕の家庭の問題だ、彼女は関係ないだろう!?」


 僕は助手席の後ろの仕切り板を叩いて抗議したが、相手のボディガードにとってはどこ吹く風だ。いや、口止めされているのか。


「寛、どういうこと?」

「すまない、朋美。ちょっとうちの都合に巻き込むことになっちゃったみたいだ」

「うちの都合、って……」


 困惑する朋美を前に、目を合わせられなくなった僕は俯いた。薄暗い防弾ガラス越しに、微かな日光が差してくる。


「ごめん」


 そう呟きながら、僕は自分を責め続けた。

 朋美は僕の彼女だ。恋人なのだ。そんな大事な人に、こんな怖い思いをさせてしまって、何が彼氏か。何が恋人か。僕はここ数日、癖になってしまった大きなため息をついた。


         ※


 一時間は走っただろうか。防弾ガラスは後部が曇りガラスになっているので、どこに連れていかれるのかは分からない。正直、『一時間くらい』という推測さえ曖昧だ。だが、もし『彼女』に引き合わされるとしたら、きっとあの場所だろう。毎年強制的に『彼女』と引き合わせられたあの場所。ここ数年は連れてこられなかったけれど。


 どうやら僕が黙考しているのを見て、朋美は声をかけずにいてくれたらしい。正直、有難かった。説明してあげられなくて、朋美の不安をかき立てることになってしまったかもしれないが。


 発車時と同様、セダンは緩やかに停車した。外側から、ボディガードがドアを引き開ける。僕は振り返り、目線だけで朋美に訴えた。『抵抗しても無駄だよ』と。

憮然として、パジャマ姿のままで地面に降り立つ朋美。そこでささっ、とボディガードが朋美の靴(家から持ってきたのだろう)を置いた。


「これはどうも」


 皮肉たっぷりに言う朋美に、ボディガードは何のリアクションもなく立ち上がり、道を空ける。


「久しぶりだな。ここに来るのも」

「そうなの? 寛」

「ああ」


 目の前には、僕の自宅と同じ規模の豪邸が建っていた。これこそ、『彼女』の居城なのだ。僕は唾を飲み、ボディガードが作ってくれた道を通ってゆっくりと正門に近づいた。

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