第16話【第三章】

 次の日の朝。

 登校中は、未来にも朋美にも鬼山先輩にも会わなかった。ただ、高校生が流れていくのに任せ、僕は歩いていく。念のため、昨日朋美から貰った紙は鞄に入れてある。この手記の内容がどういう意味か、なんとなく察しはつくが、それではまだ何も告げられぬまま赤面しそうだったので考えるのを止めた。


 昇降口に着いてから、ふと気づいた。


「そう言えば、今日は未来に絡まれてないな……」


 その時、ズキリ、と僕の左胸が鋭い痛みを覚えた。もちろん、心筋梗塞などではなく、心理的な意味で、だ。

 僕の心は、いつの間にか未来の存在を許容し、いや、それどころか、もしかしたら求めているのかもしれない。

 そんな緩んだ心境で、朋美に会うことを躊躇わずにいられるだろうか?

 ――無理だ。

 かと言って、これ以上欠席するわけにはいかない。保健室で休むことも憚られる。なんとか今日を乗り切るしかない。放課後の、朋美との出会いも含めて。


 僕は一年四組の扉を開けようとした。が、すぐに反対側からするすると扉は引き開けられた。


「あ」

「や、やあ、朋美」

「う、ん」


 朋美が教室から出ていこうとするところだった。お手洗か何かだろう。

 

「寛、ちょっとどいてくれる?」

「あ、ああ、ごめん」

「うん」


 何ともぎこちない挨拶を交わし、離れていく僕と朋美。そして僕が自分の席の方を見遣ると、


「あ! おはよう、寛くん!」


 未来がいた。昨日、昼休み中に突っ伏していた姿からは想像もつかない様子だ。見るからに上機嫌でエキサイトしている。


「おはよう! って、どうしたの? 寛くん!」


 語りながら、机の間を縫って近づいてくる。


「あー、いや、未来。君、いつの間にそんなに明るくなったの? 昨日は……」


 と言いかけて、僕ははっと口をつぐんだ。未来はあんなに落ち込んでいたのだ。下手に思い出させるわけにはいけない。

 しかし、それは杞憂だった。


「昨日? ああ、全然気にしてないよ? 何かあった?」

「は?」


 僕は目を丸くした。あれほどがっくりしていた未来が、どうしてそれを忘れているのか? いや、忘れてしまったと断言はできない。しかし、彼女は全く気にかけていないようだ。


「ねえ寛くん、昨日の午後は欠席してたでしょう? 私が授業内容を教えてあげるわ! さ、早くこっちへ! 机、くっつけましょう」

「あ、うん、ありがとう」


 ううむ、何かがおかしいが……。しかし、無表情でいられるよりは、笑顔でいてもらった方が未来は魅力的に見える。僕は素直に、欠席した二教科をしっかり未来に教えてもらった。


 未来のお陰で復習ができた僕は、今日の授業を平和裏に進めることができた。と、言いたいところだが、しかしその胸中は、雷雨の渦巻く積乱雲のごとく、であった。

 ちらりとその原因である人物の方を見遣る。僕を挟んで未来の反対側に座する彼女、桑原朋美。


 彼女は本気なのだろうか? いやいや、『そういう話』でない可能性もあるわけで。僕と朋美は、飽くまで幼馴染だ。今更何がどうってことはないんじゃないだろうか。それとも、それは僕が朴念仁なだけなんだろうか。


 すると、パチリ、と僕と朋美の目が合った。授業中に何をやっているんだというところだが、誰のツッコミを喰らうこともなく、僕と朋美は見つめ合ってしまった。

 上手くアイコンタクトを取ることもできず、どちらからともなく目を逸らす。

 唐突に、反対側から肩を突かれた。未来だ。笑みを浮かべたまま、小声で『授業に集中したら?』と訴えてくる。僕は頷いて、黒板に視線を戻した。

 そうか。未来は知らないんだものな。僕が昨日、朋美から何を託されたか。


 そう考えてみると、僕の脳内はたちまち授業どころではなくなってしまった。

他人と自分。朋美と僕。期待と不安。

 それらがごった煮状態になり、僕の頭はたちまち弾け飛んでしまうのではないかとすら思われた。


         ※


 そうして、僕は頭を抱えたまま放課後を迎えた。

 敢えて朋美の方を見ずに、鞄を提げてすたすたと屋上へ向かう。途中、誰かにつけられていないかいないかどうか、何度も確認した。


 屋上に出る階段を上り、扉の前に立つ。ドアノブを捻るが、施錠されたままだ。朋美はまだ来ていない。

 僕はその扉に背中を預け、寄りかかるようにしてぼんやり天井を眺めていた。自宅と同じ、ピカピカに清掃された天井だ。

 今日の授業で覚えた数学の公式を、目線だけで天井に書いてみる。それを何度も繰り返す。

 そのうちに、どうして自分がこんなことをしているのか、よく分からなくなってしまった。

 そうだ。朋美を待っているのだ。そんな初歩的なことすら忘れてしまうとは。僕はよほどの能天気か、かなりののんびり屋か、極めつけの馬鹿か、そのどれかなのだろう。


 やがて、弾んだ呼吸音を響かせながら、彼女は現れた。言うまでもなく、桑原朋美だ。屋上へ出るための鍵を握りしめ、踊り場で半回転しながら、何も言わずに登ってくる。

 僕もまた無言でその場を空ける。朋美は僕と目線を合わせず、いや、合わせることもできずに、さっと鍵を通して扉を押し開け、屋上に出た。


「ごめん、寛、突然」

「いや、大丈夫だよ」


 そう言いながら、僕も屋上へ踏み出す。後ろ手に扉を閉める。


「来てくれたんだね、寛」

「まあ、ね」


 すると朋美は踵を返し、屋上のフェンスによりかかった。こちらからは彼女の背中と、沈みゆく太陽が見える。逆光の中にありながらも、朋美の姿はよく見えた。風で微かに流れる短髪、少しだけ膝上で揺れるスカート、そして微かに上下する、細い肩。

 あれだけの運動性能を誇る彼女の姿がこんなに華奢に見えるとは、正直、ぼくは信じられなかった。我が目を疑った、と言ってもいい。


「あたしって最低な女だよね」

「?」


 突然発せられた言葉に、僕は反応しそびれた。しかし、そんなこともお構いなしに朋美は語り続ける。


「昨日、未来に弁当勝負で勝った時、今がチャンスだって思っちゃったの。今まで未来には押されっぱなしだったけど、でも、寛はあんなに嬉しそうにあたしのお弁当、食べてくれた。だから……だから、こんなあたしにも勝機はあるかな、なんて思って」


 すーーーっ、と息を吸い、肩を上下させてから、朋美は振り向いた。そして僕と目が合うと、ついにその言葉を口にした。


「好きだよ、寛。つき合って」


 それが彼女らしくないことに、僕はすぐに気づいた。こんなに理路整然と、最低限の言葉で伝えてくるとは。

 すぐさま俯いてしまう朋美を前に、僕は後ずさりしそうになって、しかし、叶わなかった。足から根っこが生えるような、というのは、まさにこういうことか。


「ぼ、僕は――」


 そう言いかけて、続きがまったく思いつかない。いや、考えていなかったのだ。

朋美はしっかり言葉を選んでくれたのに。僕はさっきまで彼女を待っていたのだから、何かを考えることは可能だったはずだ。いや、考えているべきだった。


「ぷっ、ははははっ!」


 唐突に、朋美が笑い出した。身体を折って爆笑だ。


「ちょっ、何?」

「はははは、はあ……」


 するといつもの笑顔に戻って、朋美はこう言った。


「気にしなくていいよ、寛。あんたがこういうのに慣れてない、ってことは、あたしが一番よく知ってると思うから」

「う……」


 どこかで安堵した僕の心を、朋美はすぐさま現実に引き戻した。


「それで、答えは?」

「……」


 僕は再び朋美と目を合わせた。朋美の顔つきは、緊張を孕んでキリリとしていて、鋭利ながらも、いや、鋭利だからこそ、すぐに崩れ去ってしまいそうだ。


 早く答えなければ。だが、けど、しかし……。『YES』か『NO』で言ったら、『YES』だ。

 朋美が僕を受け入れてくれるなら、僕とて反対する理由はない。

 しかし、『反対する理由はない』というのはあまりにも消極的な理由ではあるまいか。


 僕の葛藤を見透かしたのか、朋美はぎこちない笑みを浮かべて、口を開いた。


「い、今すぐ答えろっていうのも酷だよね。えっと……返事、待ってるから。それじゃ!」


 と言って颯爽とこの場を去ろうとして、


「あ、鍵を職員室に返さなくちゃ。あたしの仕事になるから、先に帰ってもらってもいい?」

「う、ん」


 この機を逃す手はない。僕は屋上の床から足を引っこ抜くようにして、九十度旋回。大股で、屋内への扉へと向かっていった。ノブを引き、身体を滑り込ませるようにして入室。

 扉を閉めようとすると、屋上で立ち尽くす朋美が見えた。すると、朋美はすたすたと再びフェンスの方へと歩いていく。


「わあああああああ!!」

「ひっ!」


 校庭へ向かって叫ぶ朋美。何をしだすか分からず、そんな姿の朋美は見たくない。

 僕は急いで階段を降りていった。

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