第3話
「私、此崎未来。フューチャーの『みらい』。何か質問はあるかしら?」
「し、質問?」
今度は僕が首を傾げた。それはあるだろう、質問なんて。どうして僕の下駄箱や、教室での机の配置を知っていたのか。外見だけで僕を桐山寛であると判断した根拠は。そもそも、彼女自身の放つ謎のオーラは何なのか。
まあ、最後の一つは理解不可能だろうけど(自分のオーラなんて、訊かれてもよく分からないだろう)、どうして僕の個人情報を知っていたのかは把握しておくべきだ。
「ゆっくり話せる場所に移動しましょう、寛くん」
すると、握手をしたまま僕の手を引き、未来はさっさと歩き始めた。
その颯爽とした所作が、注目を引く。整った目鼻立ちだが、どちらかといえば鋭い方だろう。瞳は切れ長で、綺麗な髪をしている。黒髪の乙女、という言葉がぴったりだ。
と、観察するのはいいとして。
「ちょっ、一体どこへ?」
「ゆっくり話せる場所」
繰り返すばかりの未来。具体的な答えを引き出すのは困難であるようだ。
周囲の生徒たちは、今度は僕の存在ではなく、未来の奇行に注目し始めた。これでは僕までもが変人と見做されかねない。
「手を離してよ、ちゃんとついていくから」
すると、彼女は握っていた僕の手をすぽっと引き抜いた。
「え?」
まったく予期していなかった僕は、前のめりにずっこけ、結構な勢いで倒れ込んだ。
「ぐっ!」
僕は運動音痴なんだ、こういうトリッキーな挙動は取らないでもらいたい。だが、それを伝えるより早く、未来は振り返った。
「寛くん、大丈夫?」
「う……」
僕のことは名字で呼んでほしい。先ほど出会ったばかりなのだから。だが、それよりも重大な問題があった。顔を上げた時、つつっ、と生温かい液体が僕の鼻から流れ出したのだ。鼻血だ。
「うわっ!?」
怪我をした経験など数えるほどしかない僕にとって、頭部、それも前面から出血するというのは大いなるトラブルだった。
「血、血! ど、どうしよう!?」
「落ち着いて、寛くん。ただの鼻血だから」
未来は膝を立てるようにして、右手で僕の顎を上げさせた。『やっぱり、骨に問題はないわね』と呟き、僕に立ち上がるように促す。彼女の手を握りしめ、ゆっくりと腰を上げる僕。
「話の前に、保健室に行った方がいいわね。こっち」
「ぶぐぐ……」
僕は自分のハンカチで鼻を押さえ、未来に導かれるまま、廊下を進んでいった。
ここでもう一つ疑問だ。初登校日であるはずなのに、どうして未来は学校の構造を知っているのか?
ああもう、それは考えないことにしよう。
未来は一階の廊下の突き当たりまで歩き、『保健室』のプレートの貼られた部屋の扉をノックした。
「どうぞ」
聞こえてきたのは、明瞭な女性の声だ。保健教員だろう。
「失礼します」
「ぢ、ぢづれいぢまず……」
保健教員は僕を見るなり、『あらあら、入学初日から災難ねえ』と一言。胸のプレートが見えた。『赤坂ひとみ』とある。
「赤坂先生、鼻を強打したようです」
淡々と述べる未来。いったい誰のせいだと思っているのか。って、ああ、僕か。運動音痴だから。
僕が自己嫌悪に走るのも待たずに、先生は『ちょっと失礼』と述べて俺の両頬を手で挟み込んだ。
「うん、骨は異常ないね」
いや、そんなことはもう分かっている。って、待てよ? どうして先生が僕の状態を知っている? いや、逆だ。先生と同じ診断を下したのは未来だ。何故、一高校生に過ぎない未来にそんな診断ができた?
人体構造に詳しいのだろうか。確かに、このエリート校の風潮として、極端に人体に詳しい生徒がいてもおかしくはないが。
僕は鼻から脱脂綿を突っ込まれ、その上から絆創膏を貼られた。カッコ悪いが、ここで処置を断るわけにもいくまい。
「ありがとうございました、赤坂先生」
「あびばとうござびばひた」
先生は大きく頷き、
「今度から気をつけなよ。この学校、ところどころ床が大理石になってて滑りやすいから」
「!?」
学校なのに床が大理石? なんてところに来てしまったんだ、僕は。
すると、耳に穏やかなチャイムが聞こえてきた。どうやら、もう入学式が始まる時間らしい。
「それじゃ、早く教室に戻りなさい、二人共」
「はーい。行くよ、寛くん」
僕は声が出しにくかったので、うんうんと頷いてみせた。
※
新入生代表の挨拶が、僕の担当でなくて本当によかった。こんな状態ではまともに喋れない。第一、こんな顔で壇上に出てはいい笑い者になるだけだ。
「さ、寛くん」
未来が体育館用のシューズを取り出してくれる。
「あ、あびがぼぶ」
なんとか礼を述べてから、僕は改めて体育館の内部を見回した。
広さとしては、ごく普通の体育館だ。市民体育館とか、今まで通ってきた学校の体育館とか。だが、その雰囲気は圧巻の一言に尽きた。
広大なステージ状の壇には、梅をあしらった幕が下され、床には赤い絨毯が敷き詰められている。そこに並べられているのはパイプ椅子ではあるものの、これもただの椅子ではない。パイプ椅子に、金の刺繍を施されたクッション状の背もたれと肘掛が取り付けられている。
取り出しや片づけはさぞ面倒だろうな、と思ったが、それは杞憂のようだった。体育館の内壁に沿って、ボディガードと同じような背格好の男性が並んでいる。生徒や教員、保護者を囲むようにぐるり、と。
きっと雑事は彼らがやってくれるのだろう。
「さ、一年四組の列はこっちだから。寛くん」
「ん」
これ以上僕を転ばせまいと思っているのか、未来は僕の手を離してくれない。
幸いなことに、生徒たちは既に自分たちでグループを作ろうとしていて、こちらに目を遣らない。
そうか。もう戦争は始まっているのだ。『戦争』というと物騒だが、今この場でどれだけ人脈を広げられるか、ということは、将来の世間体に関わる。経済的にしても何にしても、自分の立場を有利にするのは幅広い人脈だ。
僕も両親から、友達をたくさん作れとの指示を受けている。だが、そうして知り合った人間が本当の友達たり得るのか、僕には分からなかった。
僕たちは、お互いを利用し、踏み台にしながら生きていこうとしているのではないか。僕は単身、そんな戦場にパラシュート降下させられてしまったのではないか。人間の本心ほど、わけの分からないものはないのではないか。
「大丈夫? 寛くん」
気づけば、僕と未来は並べられた椅子の真ん中にいた。誰もこちらに注意を払わない。出遅れたということか。
でも、その時はっとした。こんな引っ込み思案な僕のそばにいてくれる存在がいるではないか。たった今、僕の手を握りしめてくれている、此崎未来という人物が。
僕がまた転ばないようにと、両手で肩を押さえている未来。女子の中でも長身の彼女を、少しだけ見上げるような体勢になる僕。
ドキリ。
何を考えているんだ、僕は。相手はついさっき出会ったばかりの、ただの女子だぞ。この胸の高鳴りは一体なんなんだ?
いや、待てよ。彼女は本当に『ただの』女子なのか? 鼻血の件で僕を救ってくれた未来。初対面の僕に、そこまで献身的にできるものだろうか。
そこには、使用人のような無機質な感じはなかった。淡々としていながらも、僕を導いてくれる確かな『感情』があった。
「寛くん、もう手、離しても大丈夫?」
「あ、うぶ」
頷く僕。
「私の席はここだから。また教室でね、寛くん」
僕は再び首肯する。そして自分のパイプ椅子に向けて歩いて行った。
※
入学式そのものは、いわばルーティンだった。ただ一つ、普通の高校と違うところがあるとすれば、壇上に上がって祝辞を述べる人々が多いこと、そして彼らが日本随一のエリートであるということだ。
皆、語り口は穏やかだが、その目には独特な輝きが見える。単に自分の夢を語っているわけではなさそうだ。もしかしたら、この壇上から、将来使えそうな人材を探しているのかもしれない。
それを知ってか知らずか、誰もが私語を慎んでいる。さっきまでは、あれほど血眼になって同級生との会話に入れ込んでいたというのに。これが将来成功する人間たちの現金さだとすれば、とんだ茶番だと思わずにはいられない。
やがて、新入生が答辞を述べる番がやってきた。そして告げられたのは、意外な人物の名前だった。
《答辞。新入生代表、桑原朋美》
「はい!」
おおっ、というどよめきが起きる。一体誰が答辞という名誉職にあずかるのか、話し合っていた連中がいたのだろう。もしかしたら僕も候補に挙がっていたかもしれない。しかし、答辞担当者へ送られるはずの手紙は送られてきていない。
と言っても、まさか知人が選ばれるとは。一体何故か――とは思ったものの、すぐにその疑問は霧散した。朋美は勉強だけでなく、運動神経もピカイチだった。柔道、剣道、合気道といった武道にも造詣が深い。
確かに、この場に相応しい逸材だと言えよう。
朋美はややマイクを下げてから、大きく一礼して語りだした。
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