第2話【第一章】

「……」


 誰も口を利かない。その必要がない。かといって、この場所、僕のためにあてがわれた豪邸のような一軒家は、沈黙しているわけではなかった。

 入学式に相応しいスーツを選ぶ者、僕の髪型を整える者、実家から届いた荷物の整理をする者。全く以て騒々しいが、相変わらず誰も喋らない。


 これはこれで居心地のいいものではないな、と僕は一週間前のことを思い返していた。


         ※


「ぼ、僕が高校に入ったら一人暮らし!?」


 素っ頓狂な声を上げた僕の前に鎮座しているのは、四角い顔の父と丸顔の母。顔の形こそ違えど、二人揃って実に真剣な眼差しを僕に注いでいる。

 僕が名門・梅坂黎明高校に入学を決めてから、僅か二週間ほど後のことだ。


「だ、だって僕、カップ麺だって作ったことないのに!」

「だから使用人をつけると言っただろう? 何度も同じことを言わせるな、寛」

「そうよ。お父様の言う通りだわ。それにカップ麺だなんて、貧乏人の食べるものよ。あなたには関係ないわ」


 なんだか論点がずれているが、これが僕の両親の主張だ。いや、僕からすれば勅命といってもいい。

 確かに、うちは裕福だった。父は宇宙工学の、母は生命工学の権威で、両人共に日本の頭脳と言ってよかった。僕は毎月、馬鹿みたいな額のお小遣いをもらい、しかしその使い道に困ってしまい、結局両親の口座に返却するということを繰り返している。


 そんな特異な家庭環境にあって、最もおかしなこと。それは、僕の教育に熱が入りすぎている、ということだ。

 幼稚園の、いわゆるお受験から始まり、僕の周囲には頭脳明晰かつ慇懃な人間たちの出入りが激しかった。

 この大学の教授だとか、あの予備校の人気講師だとか、その分野の最先端技術者だとか、そういった人間たちが入れ代わり立ち代わり僕に様々な知識を植え付けていった。


 僕に拒否反応はなかった。事実、彼らが一対一で接してくれる態度は実に丁寧だったし、説明も分かりやすかった。僕は水を得た魚のごとく、彼らの教えに食いついていったものだ。

 その結果が出たのが、今回の梅坂黎明高校入学という名誉だ。

 もっとも、それを名誉に感じている人間は、少なくとも僕の周囲にはいなかった。僕は『受験しろ』と言われて受けただけだし、両親は『寛なら受かって当然』といった態度。使用人たちは敢えて口を挟もうとはしない。


 だが、入学にあたり、一つだけ問題があった。僕の住まいだ。地理的条件からして、両親の勤めている研究所と梅坂黎明高校とでは、あまりにも距離がありすぎた。研究所はどちらも茨城県つくば市に、高校は東京都西部にある。高尾山の麓にあるので、つくば市近郊に暮らしていては、とても通える距離ではない。


 そこで持ち上がったのが、桐山寛一人暮らし計画だった。

 両親の計算が正しければ、使用人とボディガードをつけることで、僕の安全は確保されたはずだった。ちなみに『ホームシックになるのではないか』という僕の危惧、というか弱音は反映されていない。


 では何故、そこまでして僕にハイレベルな教育を施し、決まった人生のレールに載せようとしているのか? それは尋ねてみたことがない。尋ねる勇気がなかった、とも言う。


 ただ、一つだけ僕は条件を出した。使用人たちに、できるだけ口数を減らしてほしい、ということだ。僕と両親の三人を相手にしていた使用人たちの口先が、僕一人に向けられたのでは堪らない。


『お坊ちゃま、ネクタイが曲がっていらっしゃいますわ』

『今日の夕ご飯は何に致しましょう?』

『さあ、いってらっしゃいませ、お坊ちゃま』


 想像しただけで身震いがするくらい。思えば、僕には一人きりでいる時間が必要だったのかもしれない。それが完全に許されざる事項であったことは、僕の生まれ育ちを思い返せば明らかだ。


 何はともあれ、そういうわけで。

 僕は他の新入生に引けを取らないよう、キッチリと正装させられているのだ。


         ※


 正装を終えた僕は、『いってらっしゃいませ』という言葉もなく、深々と頭を下げられた。後方に居並ぶ使用人たち。前方には、車のドライバーを兼ねたボディガードたちだ。彼らは皆肩幅が広く、真っ白なシャツに真っ黒いスーツを着込み、サングラスをして、しきりに襟元のマイクに口を遣っている。まるでVIPの送迎のようなものものしさだ。


 ボディガードたちがさっとどけると、そこには一台の、黒塗りのロールスロイスが停まっていた。逆に目立ってしょうがないと思うのだけれど、誰もツッコミを入れる人がいなかったらしい。僕にも今更、ツッコむだけのガッツはない。

 相変わらず無言で、促されるままに、僕は後部座席の扉をくぐった。


 新しい街。新しい景色。新しい人々。引っ越してきたばかりの僕は、しかし、そんなものに興味を示すほど子供ではなかった。自分で言うのも変だけれど。第一、後部座席の両端をボディガードに固められているので、景色を見るどころではない。僕が気づいた時には、車は渋滞に巻き込まれていた。

 ああ、そうか。保護者たちが、由緒正しき自分の家柄を誇示すべく、いい車で乗りつけようとしているわけか。こういう場合を弁えて、車での送迎をしないことの方がよっぽど賢明ではないのか。まあ、人のことは言えないけれど。


 などと考えていると、車列のわきの歩道を緩やかに走っていく自転車が一台。珍しいな、とは思ったものの、乗っている人間を確認して納得した。

 桑崎朋美。僕の幼馴染で、小学校も中学校もずっと同じだった。クラスメイトだったこともある。活動的でバリバリのアウトドア派であり、それで勉強までできるのだから大したものだが、男勝りの気の強さが災いして、あまり色恋沙汰の話は聞かない。

 そんな、どこか庶民的な感覚を有する知人。その姿を見かけて、僕はほんの少しだけ、胸のつかえが取れるような気がした。


 それから約三十分後。


「到着いたしました」


 ロールスロイスのドライバーがそう告げた。左隣に座っていたボディガードが一人で降り、ドアを開けて僕が降りるのを待っている。今更ながら、緊張感が苦みをもってせり上がってくる。

 すると、周囲がざわついた。生徒も教員も保護者たちも、僕を見て息を飲んでいる。


「あれって、全国模試トップの桐山くん?」

「思ったより子供っぽい顔してるじゃん」

「ほら、ジロジロ見るんじゃないよ」


 ああ、やっぱりここでも優等生扱いか。やれやれだ。しかし『子供っぽい』とはなんだ、『子供っぽい』とは。まあ、自覚はしているのだけれど。

 ここから先は安全だと判断したのか、ボディガードたちもまた深いお辞儀をして、ようやく僕の視界から消えた。


「ふう……」


 僕は音を立てて鞄を背負い直し、校門をくぐった。ありきたりな喩えだけれど、モーゼが海を割るかのように、僕の前方で人混みがざざっと分かれる。敢えてそれを気にしないように、僕は堂々と正面突破を試みた。

 すると、甘い香りが僕の鼻先をくすぐった。校門から昇降口までの石畳の通路。その両端に、梅の花が咲き誇っている。普通、日本では桜が主流だが、地域の特性もあるのだろう。桜が咲くにはまだ早い土地柄で、満開の梅の花は実に見事だった。入学式の看板の前で、両親と共に写真に収まる生徒の姿も見受けられる。


 そういえば。

 僕の両親が何らかの式典やイベントに参加してくれたのは、幼稚園の入園式。それが最初で最後だった。それ以降は、仕事が多忙であることを盾にして、一度も顔を出したことはない。

 今でこそ平気だが、幼稚園の参観日に一人で課題をこなさなければならなかったのには、流石に傷ついた。


 気づけば、僕は梅の花が咲き誇る通路を歩き切り、昇降口前に立っていた。いつの間にか俯いていたらしい。所詮過去のことだ、忘れてしまえ。とは思うものの、それができれば苦労はしない。


「さて、一年四組は――」


 僕が自分の靴箱を探し始めた、その時だった。


「桐山寛くん、よね?」


 背後から声をかけられた。『はい』と答えて振り返る僕。そこに立っていたのは、長身で大人びた、美人の部類に入るであろう女子だった。

 何故保護者や教員ではないと判断できたのかといえば、単純に彼女も制服を着ていたからだ。

 厳密には、この梅坂黎明高校に『制服』は存在しない。だからこそ、僕は朝、出立時にあれだけ時間をかけた(というよりかけさせられた)のだ。だが、身分証明になるとか、記念に着てみたいとかいう物好きもいるもので、一応、学校指定の制服『もどき』は存在する。

 パンフレットで見かけたその制服を彼女が着ていたからこそ、僕は彼女を生徒、それも同級生であると判断できたのだ。


「桐山寛くん、よね?」


 首を傾げながら再び問い返してくる女子に、僕も再び『はい、そうです』と答えた。すると、その女子は思いがけないことを口にした。


「あなたの靴箱は、左から四番目の棚の上から三列目、右から七番目よ」

「えっ?」


 何だ、今のは? 呪文みたいだったが、確かに日本語だ。


「だから、あなたの靴箱は、左から四番目の棚の上から三列目、右から七番目」

「そ、そうなの?」

「違うの?」


 いや、ここで問い返されても困るのだけれど。

 彼女が指示をくれた靴箱には、確かに『桐山寛』の名前が貼られていた。


「ああ、ありがとう。でもどうして僕の名前を――」

「私、此崎未来。一年四組。あなたの席の左隣。よろしく。寛くん」


 すっと差し出された手を見て、僕は質問を引っ込めた。そして、


「うん、よ、よろしく」


 と、ぎこちない握手を交わした。

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