第2話 ずっと失恋してる②

 僕と三橋さかえは大学の同級生だ。干支も同じだ。でも年はひとまわり離れている。僕が二十九歳のとき、大学に進学したからだ。

 僕たちは文学部で日本文学を学んだ。ゼミも同じだった。卒業間際、さかえはとある文学賞の最終選考に残った。さかえの書いた小説は、主催が毎年出している作品集に収録され、いちおう本屋にも流通されている。

 受賞したことでさかえは本格的に執筆をはじめると宣言した。選考に残りました、と連絡があった翌日、就職先となるはずだった干物屋に電話一本で、入社の辞退を伝えた。

 さかえの家族はせっかく就職が決まったというのに(僕らの入った大学で、しかも文学部なんて、就職できないものがほとんどだった)、と嘆いていた。

「時間の融通が効くアルバイトをしながら、小説を書いていきます。どうしても、やりたい。それしかしたくない」

 さかえの両親はかつて自分たちがやりたかったことがあっても、親に止められた苦い経験でもあったのだろうか。ただの親バカの娘かわいさなのかわからないけれど、わりとあっさり、さかえが「夢に向かってがんばる」ことを許可した。

 最初はそんな意気込みだったらしい。僕にもそういった。たしか深夜のガストで。

「まーくんだって、そのつもりで本屋のバイトし続けるんでしょ」

 あのときそう問われ、言葉が詰まってしまった。

 いまでも後悔している。なんであのときちゃんと答えられなかったのか、と。もう一度、そう訊ねられたなら、こう返してやろう、という文句を用意している。でも、訊かれたことはない。

 僕は大学の近所の一軒家に学生時代の友人たちと三人でルームシェアをしていた。毎日大騒ぎし、誰かが泣いたら慰め、誰かが笑っていたらとりあえず一緒に笑っておく。やたらとクラスメートたち、男も女も泊まりにきては酒を飲んでいる。そんな毎日だった。

 卒業と同時にここでの生活はおしまいとなるはずだった。同居人たちは、一人が地元に戻り、もう一人は勤務地が関西に決まって去っていった。住み慣れた家だったけれど、一人ではさすがに家賃を払うことができないと、更新を諦めかけたとき、さかえが入居しちゃだめか、といいだした。たしかそれもガストでだった。そして、僕たちふたりは暮らし出すこととなる。

 僕のいないときに、さかえの家族は我が家にときどきやってくる。冷蔵庫のなかに、東横のれん街で買ったらしきお惣菜や、到来物のお菓子が出現する。「好きに食べていいよ」とさかえは僕にまるで自分の手柄かのように振る舞う。いい年をして小遣いももらっているらしい。

 ふたりで暮らし始めてまもなく一年が経とうとしているが、さかえは半年以上、「時間の融通が効くバイト」などしていない。ただ家にいて、パジャマ姿のままタブレットに向かっている。あるいはテレビを観ているか、寝ているか。さかえは料理も掃除もしない。いちおう洗濯は、自分のものだけ、している。

「これだけじゃ、小説を書きませんか、だなんて依頼はこないのよねえ」といいながら、さかえはよく、自分の小説が載っている作品集を眺めている。自分の書いた作品が活字になって、しかも本屋で売られているなんて、たいしたことだと思う。まだまださかえからすれば不満らしい。

 そこまで辿り着けることのできるやつなんて、なかなかいない。

 さかえは目下、大手出版社が発行している文芸誌の新人賞に送るための長編小説を執筆中だった。

 コンビニでガリガリ君を二つ、それとライジンのドライを二本、ジャスミン茶のペットボトルを買った。深夜のコンビニは、なんとなくいづらい。照明は客から溢れる日中の疲れを隠そうとしない。自分をみずぼらしく見せているような気がしてしまう。そんなことを考えてしまうのは、疲れているからだろう。

 店を出て、ガリガリ君を食べながら歩いた。家に帰ったら、風呂に入ってさっさと寝よう。今日はろくなことがなかった。


 朝、店に入荷してきた今日発売の雑誌をあけているとき、気になってしかたがなくて、ページをめくってしまった。

「松田くん、なにさぼってんだよ」

 横で雑誌をあけていた同僚の神山が僕を小突いた。そういう神山の前に積まれている雑誌の束も、たいしてひらかれてはいなかった。

「ちょっとだけ」

 そういって、ページをひらいた。新人賞予選通過者発表。見開きで、題名と名前が小さく並んでいる。

「『ワンピース』の発売日にバイトとか、だりいわ。三百冊ビニール掛けとか、まじかよ」

 神山が小声で囁くのを無視して、僕は探した。

 見当たらない。

 二周して探したけれど、松田英二の名前はなかった。僕は雑誌をとじた。そして、なにごともなかったように、雑誌の束をあけつづけた。

 意識をあけることに集中して、なんとかやりすごそうとした。

「突然ペース早くなってんだけど」

「なんか、やる気がみなぎってきた」

 僕はいった。

「さっきなに読んでたの」

「新刊の書評」

「へえ、さすがプロ書店員は違うねえ」

 神山が茶化した。こいつは本屋で働いているというのに、まったく本を読まない。漫画すら興味がない。ソシャゲの課金のために働いている、という。

「プロバイトなもんでね」

 バイトのプロ。まったく嬉しくもなんともない。自嘲するつもりもなかったけれど、誇るものも見当たらない。

「なんか面白い本あった?」

 神山は興味なさげに訊ねてきた。いいからさっさと仕事を片付けようぜ、といいたかった。

「いや、とくにめぼしいものはなかったな」

 僕はいった。本当は、こういいたかった。

 クソみてえな話だってさ。

 僕の勤めている書店の文芸アンソロジー棚に、さかえの小説が載った本がささっている。僕が勝手に仕入れた。入荷してから一度も売れてはない。

 発売したとき、さかえから、プレゼントされた。わざわざ新宿の紀伊国屋書店までいって、十冊買ったらしい。

「平積みになっていて、うれしくって写真隠れて撮っちゃった」

 さかえはあのとき、誇らしげにいった。

 応募する前に、読んでくれと頼まれた。僕は一読し、それらしい感想をさかえに伝えた。さかえは首を何度も振り続け、いわれたとこ、直すわ、とメモをとっていた。

 僕の意見など、たいしたことはない。あたりさわりのない、とるにたらないもので、気の利いたことなどまったくいうことができなかった。


 ガリガリ君の棒に、「あたり、もう一本」とあった。

 棒を道端に投げ捨てた。思い出しギレなんて、情けなさすぎる。

 僕は、ずっと失恋し続けてる。

 アイフォンが震えた。

『そろそろ会いませんか』

 とラインがきた。

 

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