8 あの人が頼るのは僕たちじゃないってだけ

第15話 あの人が頼るのは僕たちじゃないってだけ①

 ディスプレイには知らない番号が表示されていて、わたしはしばらく電話をとろうとしなかった。電話は鳴り続ける。

 頭をかきむしり、しかたなく、

「どなたですか」

 わたしは結局電話をとった。根負けした。

「僕です」

 声がした。

「どちらの僕ですか」

 そのいまいましい声、忘れられるわけがない。

「そういうのいいんで。いまから新宿きてください」

「いま夜九時なんですけど」

「小娘じゃあるまいし」

 だから、なんで、お前と、わざわざ、新宿であわにゃならんのだ。

 こいつとはかつてまーくんを交えて一回食事をした。まーくんがトイレにいったとき、「電話番号交換しよう」とやつはいってきた。なんで? と訊くと(交換しなくちゃならんのだ、という「なんで」である)、「松田さんのためですよ。そうじゃなきゃ僕だってしたかないですよ」といいやがった。なにがまーくんのためだ。と思いつつ、わたしは電話番号を教えた。あれは春の終わりのことで、いまは夏が終わろうとしている。その間、まーくんは暑い暑いといっているだけで、とくになにがあるわけでもなかった。強いていえば、働いている本屋の制服が指定になったくらいか。でも申し訳ないが、まーくんはいつもミニマリストのごとく定番服(無地のシャツに黒のデニムパンツ。しかもあの人は半袖シャツを持っていない。長袖をめくっている)を着ていたし、しばらくしてから気づいたくらいだ。

 ああ、そういえばお前と一緒に江ノ島にいったらしーなおい、しばらくのあいだイタイイタイと騒いでいたぞ、うちのもんになにしてけつかんねん、とよくわかってない関西弁(もどき)で頭のなか怒鳴ってみた。

 そもそもわたしは、いまとりかかっている新作の冒頭部分を書き始めたところだった。といっても書いたのは一週間前で、そこからまったく筆がすすまず、ガンガンにクーラーをかけた部屋でネット動画をみたり、今夏の定番デザートとなっていたファミマのチョコミントアイスを食べたりと、はたから見れば、「ちったあ働け」と怒鳴られそうな暮らしぶりだった。

 気分転換にはならないかもしれないが、なにかいいアイデアが浮かぶかもしれない。

 そう思ってわたしは新宿にいくことを承諾した。

 いやなやつ、をわたしはなかなか書くことができない。今度の作品ではあいつをだしてやろう。取材を兼ねて、というわけだ。

 待ち合わせ場所は新宿のスーパー銭湯を指定された。なんでそんなのんきなところでいけ好かないやつと落ちあわなくちゃならないのだ、とイライラながらジェイアールに乗り込む。酔っ払ってはしゃいでいる若人たち。そして疲れた顔をしている人々。夜の電車っていうのはなんでこんなに寂しいんだろう。車窓から見える景色も、田舎の夜道より明るいはずなのに、こんなに悲しい。でもそれはきっと、ただのわたしの心象風景である。景色はなにも悪くない。わたしの心持ちの問題だ。

 スーパー銭湯の前で、あいつはふてくされた顔で立っていた。なんだかなあ、とわたしは思いながら、やつの前に立った。

「遅い」 

 開口一番がこれである。知るかよ、といいそうになるのをこらえ、「そりゃどうも」とわたしはいった。謝ってなんてやるもんか。

「で、どこいくの」

 わたしは訊ねた。

 やつはなにもいわず、歩きだす。

 目的地もいわねえのかよ。ふざけんなよ、と思いながら後に続いた。

ゴールデン街にわたしたちは入った。狭い道、明るく酔っ払った人々、店から聞こえてくる騒ぎ。心の底から居心地が悪い。「まさか飲もうとかいうんじゃないでしょうね」

 わたしの言葉にまったく反応を示さない。足が止まり、わたしは背中にぶつかった。

「ちょっとあんたさ、いきなり……」

 アリサカは小さなドアを睨んでいる。眉間に皺を寄せて、ドアというよりその先を透視しようと試みているみたいだった。店の前には照明はなく、目立たない。ここに店があるなんて酔っ払いには気づかないのではないか。なかから声も聞こえない。そして、「会員制」と札がかかっていた。

酔っ払いが通り過ぎていく。しばらくわたしたちは立ち止まったままだった。

「ねえ、入らないの?」

 わたしはアリサカにいった。アリサカは返事をしない。

酔っ払いがわたしに声をかけた。一緒に飲もうと呂律のまわらない口で誘う。わたしは無視した。別に本気でもないらしく酔っ払いは去っていった。

「ねえ、入らないの?」

 わたしはいった。

「入ったら最後、戻ってこれないかもしれない」

 アリサカはドアを見たままいう。

「これはやばい」

「やばい?」

 ぼったくりとかなのか?

「松田さん、なんてやつに取り込まれちまってんだよ」

「まーくん? 取り込まれる?」

 わたしはわからなかった。なにか金銭トラブルでもあるのだろうか。もしそうだとしたら、どうしようか。詳しく知らないけれど、アキラくんは法律関係の仕事をしているとかいっていた。トモコに相談したほうがいいのかもしれない。

「あなたが考えているようなことじゃない」

 アリサカの言葉でわたしは我に帰る。

「そういう現実面のことじゃない」

 現実。なにいってんだあんた。現実以外の問題ってなんだよ。わたしはうまく頭が回らず言葉にすることができない。

「あんたがいつも考えているお花畑みたいなくだらん恋愛もどきの話でもない」

 なんだこいつ。こんなところに突っ立って、憎まれ口を叩かれるいわれはない。

「あ、そう、じゃあ……」

 帰ろうとしたとき、扉がひらいた。女がいた。

「早坂さんが入れって」

 女はいった。女はわたしと同い年くらいだろうか。難しげな表情をしている。招かれざる客を仕方なしに、嫌々誘う。そんなふうだった。

アリサカは店に入っていく。わたしは固まったままでいた。

「早く入んなさいよ」

 女がせかす。

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