第16話 あの人が頼るのは僕たちじゃないってだけ②
カウンターしかない店だった。こんな狭い店、初めて入った。
奥の席にグラスがあった。トイレに入っているのだろうか。トイレらしきドアは少し開いていた。
アリサカはグラスの置かれた席の横に座った。そして、まるで人がいるかのように空席を見ていた。
「なににすんの」
女がいった。
「じゃあ、ビールで」
慌てて答えると、グラスとスーパードライの缶が置かれた。
「あんたはどうすんの」
女がアリサカにいう。しかしアリサカは答えない。
「同じものを」
わたしはいった。
女はアリサカのビールをテーブルに置くと、お徳用のポテトチップを雑にあけ、小皿にいれた。そして女はタバコに火をつけ、興味なさそうにアイフォンをいじっている。
アリサカはビールをあけもせず、わたしに背を向けただ隣の席を見ていた。
これはいったいどうなっているんだ? わたしはいま、ゴールデン街の小さな飲み屋にいる。そこではクラシックが小さく流れていて、となりの店のカラオケのほうが大きい。ここにいるのは店番らしき美人とアリサカとわたしだ。それしかいない。
「あのう」
わたしは女に声をかけた。
女はスマホに顔を向けたまま「なに」といった。あのね、わたしいちおう客なんですけどね……といってやりたかった。この店の流儀なのか、この女がそもそもそういうやつなのか。態度の悪さを咎めることができない。
「早坂さんはどこですか」
わたしは訊いた。
女はわたしのほうに顔を向けた。そしてバカでも見るような目をした。女は答えなかった。
「トイレ?」
わたしはいった。
女はやはり答えなかった(聞く前からわかっていた)。
わたしはビールを一口飲んだ。いたたまれなさ半端ない。
「ここにいる」
アリサカがいった。アリサカはそのままの体勢でいた。
「どういうことよ」
返事をしない。この店にいたら全員質問に答えなくていいルールでもあんのか。
わたしはもうさっさと店を出てやろうかと思った。
帰りたいんですけど、といおうとしたとき、アリサカがわたしのほうを向いた。
「お話があるそうですよ」
アリサカはいった。
「なにをいってんの……」
「っていってますけど」
わたしのほうを向いているけれど、わたしに向けていっていないことはわかった。
「ちょっと待ってよ、誰にいってんのあんた……」
「早坂長太郎」
ぞっとした。
「どこにいんのよ……」
ここには三人しかいない。
「僕のとなりに、ずっといるけど」
「あんた……」
正気? といいたかった。代わりにわたしは女を見た。
女は頷いた。
どういうことだ。この店に、もう一人、早坂長太郎なるやつがいる? そして、わたし以外には見えている。
頭おかしいんじゃないの、といいたい。でも、三人いるうちの二人がいる、という。わたしだけが見えない。この場所で、頭がおかしいのは、わたしのほうなのだ。
「そんな……」
からかってるの? といいたかった。わたしを騙しているんでしょう? 早く嘘だっていいなさいよ。いまだったらこのドッキリにいいリアクションしてやれるから……。わたしは意識を別のところへ持っていきたかったのだろう。自分がしゃべっていることの語尾にきっと全部三点リーダーがふたつついているんだろうな、と思った。
「よくあなたのことを英二から聞いています、って」
アリサカはいった。通訳しているみたいに、まじめくさった顔をしている。
「早坂さん……?」
わたしは訊ねた。アリサカが頷く。
「どうも……」
わたしはいった。かつがれている、という疑惑も、こいつらおかしい、という疑惑も消えなかったけれど、答えた。
「どうですか、進んでますか、小説。失恋した女の子がイケメン三人が住む長屋で暮らす話、って」
ぞっとした。
「なんで知ってるの……」
アリサカにいったのか、早坂にいったのかわからなかった。そもそもなんでこいつら揃いも揃って名字に「坂」つけてるんだよ。混乱する。
「英二がわりと面白いっていってましたよ」
「嘘よ」
わたしは即答した。そもそも、わたしの小説を、まーくんは読んでいない。読ませていないし、まーくんは興味なんてない。
「こっそり読んでるみたいですよ。ああ、でもイケメンの書き分けがなってないっていってたなあ。あいつは男にうるさいんだ」
「ねえ」
「なんでしょう」
アリサカはその見えない者の声を聴きとり、言葉にする。
「ああ、ごめんなさい早坂さんじゃなくて、アリサカさん」
ほんとうなの? とわたしは訊ねた。
「ほんとうにその人は、早坂長太郎なの?」
「ほんとうよ」
女が口を挟んだ。
「わたしたちが集団催眠になっているわけでも、酔っ払いの亡霊にチャネリングしているわけでもない。そこにいるのは早坂長太郎」
女はタバコの火をもみ消した。
「わたし、このアリサカって人に連れてこられてここに来て、だからわけがわかんなくて」
アリサカはなにもいわなかった。
「僕が会いたかったからね、君たちに。だからここにくるように願ったんだ」
アリサカは険しい顔をしていた。なにかいってやりたかったんだろう。しかしそれをしたら言葉を拾うことができないのだろう。だから、堪えている。そんなふうに見えた。
「なんで会いたかったんですか」
この異常な状況にのめりこみつつある自分がいた。
「英二は幸せもんだね。こんなかわいい子が才能を嫉妬して、サイキック少年にもなつかれて」
アリサカは口を歪めた。サイキック少年。ちょっとウケる。
「会えて嬉しかった。そろそろ俺は帰るよ。次に会うときは、この場に慣れる。ちゃんと見えるようになる。まあ改めて飲みましょう」
沈黙。隣の店の騒がしい声は壁一つ隔てているだけなのに、どこか別世界から聞こえてくる音のようだった。死者が生きている者が立てる音を聞いて懐かしむような感情がせりあがってくる。
「お勘定」
アリサカがいった。
わたしたちは店を出た。外は騒々しいというのに、わたしにはなにもかもが素晴らしいことのように感じた。道端で寝転がっている酔っ払いにすら、愛おしく思えてくる。なんなんだ、これは。
それと同時に、奥底からどんどんと、悲しみと名付けるのがもったいなく思える、そんな深い絶望があった。
これじゃまるで、臨死体験をしたみたいじゃないか。
アリサカは帰り際にいった。
「なにもかもあの野郎の手の内ってことですよ」
心底悔しそうだった。
「早坂長太郎のこと?」
「松田さんがあの店に入っていくのを追いかけていたのもお見通しだったわけだ」
「だって、あの人は」
その後の言葉を続けることができなかった。
幽霊なんでしょう?
「腹立つ」
アリサカはいった。
「あの人が頼るのは、僕たちじゃないってことが。あの未練タラタラのインテリクソ幽霊ってことが」
わたしは、なんていったらいいのかわからなかった。
さっきのことに対しての驚きからでなく、アリサカが、泣きそうな顔をしていたからだ。
まるで、小学生みたいだった。
小学生が夜にうろついてはいけない。
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