秋
9 打ち上げのカリスマと楽屋俳優
第17話 打ち上げのカリスマと楽屋俳優①
線香をあげて向き直すと、紫織さんと目があった。彼女は隣のリビングでお茶の準備をしているのが見えた。
「昨日は向井さんがいらっしゃってくださったんです」
紫織さんはいった。
「いまドラマに出ているでしょう」
観てはいない。どうせ暑苦しく話をかき乱す「だけ」の役に決まっている。
「そういってました。忙しいのにわざわざ」
松田さんも、と紫織さんは付け足した。
「僕はまったく、暇人なんで」
「わたしといっしょね」
「そんなことないでしょう。恵ちゃんも今年で小学生ですし」
「もうそのくらいにまでなったらね、子供なんて悪いけれど勝手にやってくれってかんじなのよ」
「そういうもんですかね」
「そういうもんよ」
毎年この家にきているが、いつまでたっても慣れない。かつては作りかけの小道具や衣装が詰め込まれているダンボールで、足の踏み場もなかったが、いまではすっきりしている。紫織さんがすべて処分してしまったのだ。早坂長太郎の面影は、この家では仏壇にしか、ない。
「向井さんがね、余り物だからって、たくさんお菓子を持ってきてくれたんだけどね、食べきれなくてね。もし良かったら」
僕が返事をする前に紫織さんは立ち上がった。
「いや、あまりお気遣いなく」
「でも、せっかくなんだし、ね」
大皿一杯に盛られた和菓子が出された。
「……なんならお土産に持っていく? おうちの皆さんに」
問われたけれど、返事をする前にやはり紫織さんは紙袋に菓子を入れだした。
「向井のやつ、すごいですね」
「お中元にお歳暮も送ってくれるのよ」
さすが早坂長太郎の一番弟子なだけある。といおうとしたがやめた。
「先週向井さん、テレビのバラエティに出てたでしょう」
「そうなんですか」
「有名なやつ」
番組名を聞いて、ああ、と頷いたけれど、観たことはなかった。たしかさかえがいつも観ているやつだ。
「なんだかテーマが『影響を受けた人』だったらしくて、テレビ局から写真とかビデオないですかって問い合わせがあったの。でもねえ、全部捨てちゃったから、あの人のもの」
紫織さんは申し訳なさそうな顔をした。
「松田くんのところにはこなかった?」
「僕は向井とはしばらくまったく会っていないんで。忘れられてるんじゃないかな」
「ずっと仲良しだったじゃない」
「別に喧嘩をしたわけでもないんですよ。ただ、あいつ売れっ子でしょう。いまさら食えない時代の知り合いになんて連絡しないでしょう」
「そんなもんかしら」
向井の恩師の妻が首を傾げた。
「才能ありましたからね、昔から」
「才能っていうより、わたしはなんだかめちゃくちゃな人って思ってたわ」
「いやほんとうにめちゃくちゃです」
僕は笑った。
「早坂さんがあいつにつけたあだ名があるんですよ」
「ああ、それ前にも聞いた。『打ち上げのカリスマ』でしょ」
「それです」
向井兜太は、打ち上げのときが一番面白い。それは劇団員全員の一致した意見だった。
そもそも稽古中はいつも暗い顔をしている。公演までのあいだ、飲みに行ってもたいして輪に入ろうとしない。しかし舞台がはねると突然元気になる。客演の俳優がひくほど打ち上げでは元気になり、最後まで残って騒がしくはしゃいでいた。
「でも、松田くんだっていわれていたじゃない」
紫織さんがいった。これはまずいことになったな、と僕は白々しく頭を掻いた。
「『楽屋俳優』でしょ」
そう、それ、といって紫織さんは手で口を抑えた。笑いが零れる。
どちらかといえば、僕の方が向井よりも問題だった。稽古場や楽屋ではにこやかにいるというのに、舞台に立つと表情が固くなる。コミカルな役をやっても目が笑っていない、とよくいわれた。
「みんな若かったわよねえ」
紫織さんはいった。
「二十代でしたからね」
「なんだかねえ、どんどん昔になっていって、あの頃生活もめちゃくちゃでね。毎日がお祭り騒ぎみたいだったじゃない。テレビの人から連絡があったとき、早坂の顔を忘れてしまいそうだって思って。思わずね、検索しちゃった」
「検索ですか」
「そうしたら、酔っ払った早坂のかおが出てきて。ろくな写真残ってないのよね。で、やっと思い出した。いずれね、早坂って人がいたことすら忘れちゃうんじゃないかなあ、って思うときがある。なんでわたしはここにいて、恵たちの父親はいったい誰なのか、忘れちゃう気がする」
午後三時。窓の向こうは明るく、部屋は薄暗い。光が足りない。夫を失った女の独白はせつなさや悲しみよりも、どこか間の抜けたぼんやりとしたものに包まれていた。
目の前に盛られている菓子を完食しなくては、ここから出ることはできなさそうだった。
早坂、あんたは紫織さんの前になんで出てこないんだ。
家に戻るとさかえがテレビを観ていた。
「珍しいじゃん、ドラマなんて」
さかえはテレビドラマはほとんど観ない。声優には詳しいくせに、俳優には興味がないらしい。当たり障りのないバラエティ番組を好む。
「まあね、たまには世の中の流行りってもんをチェックしようと思ってさ」
さけるチーズをちびちびとむしりながら、さかえはいった。
テレビから懐かしい声が聞こえた。覗いてみると、向井兜太が映っていた。
「向井じゃん」
思わずいった。
「まーくん知ってんのこの人」
「最近よくテレビ出てるんじゃないの」
店で売っているテレビ雑誌で見た、と僕は答えた。
「なんか主人公のことを好きな同僚役? 今日初めて観たからわからんけど」
「へえ」
そういって僕は冷蔵庫をあけた。
「なんかこの人、喋り方がまーくんに似てるね」
さかえの言葉に動揺して麦茶をこぼした。
「なんだって?」
「え? いやなんか喋り方っていうか、似てない?」
「自分じゃわからんよ」
おそろしい。そんなことがあってなるものか。
僕がテレビのほうにいくと、既に向井の登場シーンは終わっていた。
「そんなこといわれたら気になるじゃん」
「いやいや、気にしないでよそんなん」
さかえはさけるチーズを口から垂らしたままいった。
「あ、そういえばあれに出てたな」
そういってさかえはリモコンを手に取った。
「なんだよ」
「まだ観てないやつ」
テレビに映し出されたのは、涙ぐんでいる向井兜太だった。
『あの人がいたかから、いまの僕がいるんですよね』
早坂長太郎の写真。『恩師の死が、向井兜太の俳優人生のターニングポイントとなった』という視聴者を煽るテロップ。若かりし向井の写真、たぶんいつも打ち上げに使っていた中野の飲み屋で撮ったものだ。そして、離れたところに、僕がいた。
さかえは気づいていないらしい。僕は息をついた。タバコに火をつけると、さかえは珍しそうに僕を見た。
「どうした」
「換気扇の前で吸わないなんて珍しいじゃん」
慌てて僕は、台所に向かった。
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