第4話 恋人はいません②
まーくんの小説を読んだときの衝撃は、いまでもありありと思い出すことができる。あれはほんとうに、やばかった。突然頭を思いっ切りはたかれたように、なにがなんだかわからなくなり、慌てて、そして自分がいかに無力で井の中の蛙(手垢に塗れて意味すらない、くだらんたとえだ)というやつだったのかを思い知らされた。
わたしは中学の頃から小説めいたものを書いてきたし、偏ってはいるものの、それなりに本だって読んできたつもりだった。
大学に入学してきた同級生たちなんて、アニメと漫画しか読んでないような連中で、活字を読んでいると頭が痛くなる、などといって笑っていた。みんなで食堂に集まってゲームをするとか、昨晩観たアニメの感想を語り合うために大学へわざわざやってくるようなもんだった。わたしだって乙女ゲームをするし、アニメについて一説ぶることは楽しかった。でもそれははっきりいって、輪のなかで浮かないため、そしてみんなを見くびるために参加していたようなものだった。
小説家志望なんてくさるほどいる。大学に入学したところでほいほいなれるもんでもないに決まっている。文学賞をとった卒業生は、二十年前に一人いただけだった。その人の本は学校の図書館でしか見たことがない。この学年のメンツのなかで、自分だけが、作家になれる。わたしはそう確信していた。
まーくんは異質だった。そもそも高校のカーストで最下層にいた連中が、大学に入ってたくさんの同志をみつけて群れて慰めあっているなかで、ひとり、おじさんが混じっていた。十代からすれば、三十手前の男なんて畏怖する大人、だ。みんなはじめのうちはまーくんの扱いを迷っていた。
飲み会の幹事をしてくれる、自分たちの趣味にも文句をいわない、というか話についてきてくれる、いい年したひと。まーくんは見た目が若い。年より五つは幼く見える。距離は縮み、ゴールデンウイークが終わった頃には、みんなは「松田さん」ではなく「まーくん」と呼ぶようになった。
一年生の夏休み直前に、有名作家、わたしは読んだことがなかったけれど名前は知っていた、が特別講義をすることとなった。短編小説を受講生は持ち寄り、大先生がコメントをしてくれるということだった。
授業直前に、みなが書いた短編をまとめた冊子が配られた。ああ、なるほどなあ、とわたしは半分こばかにしながら皆の書いた作品を流し読みした。原稿用紙十枚分、よく書けたもんだねえ、と流し読みした。とくに面白くもなかったし、ありきたりな話と展開でそれっぽくまとめて一丁あがりといったかんじだった。くだらんなあ、まあせいぜいがんばんな。
自分の小説は、三度読み、悪くないなとにやついた。わたしのあとに、まーくんの小説があった。
「うまいね」
その大先生は、ひとこといった。
「でも、なにかが足りないんだよねえ」
まーくんは、一言も聞き漏らしてはならないとばかりに前のめりとなっていた。
「松田くんの作品は、なんだか『どこかで読んだことがある』ってかんじなんだよなあ。オリジナリティっていうか、君自身が書くべきテーマをまだ探しているってことじゃないかなあ。きみ、いくつだっけ」
「二十九です」
まーくんは少しだけ間をおいて、そして即答できなかったことに焦るかのように早口だった。そして、顔をうつむかせた。
これまで、こんなに恥ずかしそうに年齢をいう姿を見るのは初めてだった。入学式のオリエンテーションだって、同級生におっさん呼ばわりされても、別に自分の年を恥じたことなんかこの人はなかった。
「なんか十年くらい記憶なくしちゃってたから、気分的にはまだ二十歳くらいなんだよね」と笑い飛ばしていた。わたしは、まーくんをこんなふうにさせた、この偉そうな小説家を憎んだ。誰がおまえの小説なんか読んでやるか。そもそも読むつもりもなかったけど。ついさっき、わたしの小説を「面白いねえ、なんだか底が見えないっていうか」と褒めてくれたことも忘れて、挙手した。
「あのう、オリジナリティってなんですか。というか、先生にとってオリジナリティってなんですか」
教室全体が、凍った。いや、時間が止まった。
「そういうことは書き手となろうとしている者が質問することじゃないよ」
後ろで授業を見守っていた、学科長がいった。かなり焦っているようだった。大先生でナントカ賞を受賞? そんなこと知るか。わたしは答えを聞くまで絶対に退いてやるものか、と思った。
「いや、いいです、わかりづらかったかなあ」
生意気かつ喧嘩腰の学生からの問いで、大先生はおおらかさと懐の深さを崩すことはなかった。
「例えば、軍手ってあるよね。昨日道に落ちてたのを見た。あれって右手左手で一組でしょ。道端に落ちてるときってたいがい片方だけだ。片方無くしてしまって、持っていた人はどうするのかなあ、とか」
そういうところから、物語ってはじまるんだよねえ。そういう感性を養ってみるといいんじゃないかな。
教室のあちこちから小さく笑い声が起きた。なに笑ってんだよおまえら。こんな話、うちら全員バカにされてるようなもんじゃないか。
はい、とわたしではなく、まーくんが答えた。「ありがとうございます」とまでいった。わたしはまーくんを見た。まーくんは、真剣な表情で大先生を見ていた。
なんだこれは。けむに巻かれたような気分だった。
「みなさんすごく才能あるねえ。これからも精進していってください」
あたりさわりのないコメントを残し、大先生は去っていった。
母が去っていったあとで、わたしは押入れのなかにある段ボールを開いた。そしてあのときの冊子を取り出した。
わたしの作品が載っているページをひらく。これを書いてからもうすぐ五年がたつ。なんとつまらないものだろうと思う。なにが底が見えない、だ。考えなしに一時間ほどで書き上げたしろものだった。おちもなければ筋だってない。
まーくんの小説は、いま読んでも完璧だ。わたしは初めて読んだとき、「本屋で売ってるような小説」と思った。まぬけなコメントだった。
文と文のつながりがなめらかに流れ、決して止まらせない。短文でたたみかけ、過不足のない表現を紡いでいく。そして不意打ちのように訪れる詩情。わたしは身震いした。こんなものを書く人間はばちがあたる、と考えた。まるで死んだ人がこの世を懐かしんでいるような美しさと、世界にたいしての諦めがそこにはあった。こんなふうに世の中を眺めていたら、さぞかし大変だろう。わたしは自殺してしまった作家を何人も連想した。これまで同級生の小説をいくつか読まされてきたけれど、まーくんの小説を読んだような衝撃はいっさいなかった。
大作家は後期にもやってきて、参加者それぞれに毒にも薬にもならないコメントを残した。まーくんに、「やっぱりなにか足りないなあ」といった。
段ボールに冊子を戻した。そして、わたしは昨日まで書いていたデータをすべて削除した。
書くべき人間というのは、わたしではなく、まーくんなのだ。結局まーくんが創作を出したのは、大作家の特別講義に提出した二作だけだった。卒業制作も、ほとんどの生徒が創作をだしたというのに、まーくんは「三島由紀夫『禁色』と川端康成『女であること』」と題する論文を提出した。たしかに面白かったけれど、わたしが望んでいたものではなかった。
そうだ、ガリガリ君を買わなくちゃ。コンビニまでいって買ってこなくちゃ。わたしは思いだした。まーくんが帰ってくるまでに冷凍庫にガリガリ君を詰め込んでやるつもりだった。
あんた他人の本売ってる場合じゃないでしょ、さっさと書けよ。疲れた顔をして帰ってくるまーくんを見るたびに、わたしはいってやりたかった。
一緒に暮らすということは、オフの表情を見てしまうということだ。学校で会っていたときのまーくんは、いつだってにこやかに、輪のなかに溶け込んでいた。ほとんどバイトばかりしてみんなと遊ぶこともなかったけれど、絶対に疲れた顔なんて見せなかった。
当時一緒に暮らしていた連中は、見ていたのだろうか。みんな、まーくんをいたわったのだろうか。でも、わたしはくたびれた姿を見るたびに、苛立ってしまう。
「さかえちゃん!」
声をかけられ振り向くと、たまに寄る焼き鳥屋のあんちゃんが店の前で立っていた。
「ああ、ども」
「すげえ顔して歩いてたよ。なんか親を殺したやつのところに敵討ちでもしに行くのかと思った」
彼はなかなかユーモアのあるやつで、カウンター越しによく話しかけてくれる。無駄話をするたびに、店の大将に小突かれていた。
「親、殺したって死なない勢いなんだけどね」
これから歌舞伎を観に行くといって母は去っていった。
「そりゃいいことだよ」
あんちゃんは、いった。
店のほうからいい匂いがしてきた。さっきローストビーフをつまむことも禁じられ、わたしは今日、なにも食べていなかったことを思い出した。
「ちょっと一杯飲もうかな」
「どこかいくんじゃなかったの?」
「コンビニいってガリガリ君買い占めるだけだから」
ビールと焼き鳥を摂取してからでもかまわない。どうせまーくんは今日も遅くに帰ってくるのだ。それに、焼き鳥とローストビーフは別腹である。
「なにそれ、さかえちゃんやっぱ面白いな」
「そう? 世の中がつまらないだけでしょ」
のれんをくぐり、そして店をでたときには、わたしはこのあんちゃん、ミツルくんと交際をすることになっていた。
「さかえちゃん、彼氏いるの?」
「恋人はいません」
「じゃ、俺と付き合おうよ」
どう答えたのか、忘れたけれど、いつのまにかライン交換し、帰り際、長めのキスをしたのだった。
あまりに久しぶりだったものだから、不覚にもぼーっと、した。
そして、ガリガリ君を買うことも、忘れていた。
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