キスをしても一人

キタハラ

1 ずっと失恋してる

第1話 ずっと失恋してる①

『早坂長太郎の誕生日です』

 終電に乗ることができて、一安心してアイフォンを取り出すと、表示されていた。削除してポケットに戻した。

 車内を見回すと、すこし離れた場所の座席がぽっかりと空いていた。移動しようとして、気づいた。空いている席の前に、吐瀉物が撒き散らされていた。

 電車は駅に到着し、乗客が入ってくる。彼らは空いた席を目ざとく見つけて駆け寄る。そして惨状に気づいて立ち止まり、すこし距離のある場所に落ち着く。

 さっさと渋谷に着かないかなと、僕はげろを見ながらただ祈った。

 二時に就寝するまで、なにをしようか。風呂に入りながら読みかけの本を読む。冷凍庫に買い置きしてあるガリガリ君のメロンソーダ味があるはずだ。ストレッチを布団のうえでする。最近立ち仕事がきつくなってきている。とくに腿と脛はしっかりやったほうがいい。

 そろそろクーラーを軽くかけないと寝苦しいかもしれない。

 やるべきことと、やりたいことを取捨選択するのが面倒だった。でも漫然とだらだら過ごすのももったいなかった。

 自分はいつだって、計画をうまく立てることができない。せめて寝るまでの一時間は大切に扱いたいと思っている。

 風呂、アイス、ストレッチ、からのクーラー(弱め)。

 お誕生日おめでとうございます。

 僕は心のなかで念じる。伝わるといいのだけれど、どうだろう。

 去年も似たようなことをした気がする。

 ご自愛ください的な、形式ばったメールを一本送ることさえできれば、あとは放っておけるのに、それができないものだからもやもやする。

 車窓から見える景色は、見飽きた動画みたいにただ流れていくだけのものだ。もう心が動かされることはない。

 小さな頃は、夜の電車に乗ることが好きだった。

 窓のむこうの、流れていく景色を眺めるのが楽しくてしかたがなかった。移動すること、移り変わることそのものを、まるごと楽しんでいた。

 いつからA地点からB地点までの移動過程に、興味を失ってしまったのだろう。

 旅行をしていないからかもしれない。そんなことを思う。

 移動を楽しむには、目的地が魅力的でなくては。

 この生活に、慣れすぎてしまったのだろう。

 渋谷で降りると、走り出さなくてはならない。かがんでオールドスクールのゆるんだ紐を結び直す。まもなく到着だった。

 ドアが開いて駆け出そうとするとき、電車に乗り込もうとしたおやじと肩がぶつかった。

「すみま」

 いい切るまえに、おっさん気をつけろ! と怒鳴られ、僕は無視して走り出した。

 おっさんに、おっさんといわれ、腹が立つ。五七五。

 そもそも降りる奴優先だろうが。なにを偉そうに。どうせああいうやつは会社でも家庭でも無駄に自己主張が激しく煙たがられているに決まっている。

 おまえのクソみたいな人生、ざまあみやがれ。

 走っているうちにどんどん口汚い言葉が頭のなかに形作られていった。

 こんなふうに、いつも、乗り換えるために走っている。

 電車に乗り遅れないようにダッシュする以外に、僕はここしばらく真剣に走ったことがない。

 息切れをし、走るスピードを弱めたとき、

「おっさん、すまん」

 と僕は小さく口にした。

 この言葉も、さっきのおっさんに届かない。

 それはべつに構わない。


 家に帰るとさかえがダイニングテーブルでアイパッドをひらいていた。

「まーくんおかえり」

 僕に視線を向けず、さかえがいった。部屋中がたばこくさい。机に置かれた缶ビールから、吸殻が突き出ている。

 しかもかなり低い温度で冷房をかけているらしい。これじゃあまるで真夏のファミレスではないか。

 その冷気は入った瞬間ありがたたかった。だが馴染んでくると今度は迷惑だった。

 煙はたかれ続け、冷房つけ放題。

 家での喫煙は換気扇のそばでおこなうこと。僕たちはふたりともかなり重症の喫煙者だ。いくらこの家には僕たちしか住んでいないとはいえ、あたりかまわず吸いまくるのはよくない。たばこのにおいというのは、吸わない者にとってかなり不快なものらしい。服ににおいがしみつきっぱなしというのもよくないから。

 僕たちが一緒に暮らすにあたって決めた三つのルールのうちの一つだ。

「わかったわ」

 あのとき、そういって殊勝な顔で頷いたというのに、すぐにさかえは破ってしまい、なんとなくアリ、にした。

 残り二つのルールも、いずれ見事に破られることになるだろう。

「どう、調子は」

 いきなり咎めるのもなんだと思い、僕はまずさかえの状況を訊ねた。

「そうだね、よくないねえ」

 そういってさかえは外付けキーボードを叩いている。指がおかしくなるんじゃなかろうかというくらい、大袈裟な音を立てている。

 ライブでキーボードを演奏しているみたいだ。

 たしかにこれは、さかえにとって即興であるにちがいない。ただし、見る側からすればまったく優雅ではなかった。

 もやもやしたまま風呂に入ると、湯船に長い髪が一本浮かんでいた。僕はつまんで風呂のへりになすりつけた。

 本を持ってくることを忘れ、なんとなく手持ち無沙汰となってしまった。昨日買ったばかりの藤沢周平『橋ものがたり』は、風呂に浸かっているあいだに一編ずつ読むつもりだった。

 僕はさっさと風呂に入るのを切り上げた。

 さかえはさっきと同じ姿勢で、キーボードを打ち続けていた。

 終わりのないまま突っ走っている。いや、そう簡単に終わらないよう、うまく結末までいかないようにうろうろしているのかもしれない。

「今日はどのくらいまで頑張るの」

 僕が訊ねると、きりのいいとこまでやって、寝る、とタブレットに目を向け、独り言のようにいった。

 集中しているからこっちに話を振ってくれるな、と態度で示された。

 べつにいつものことなのでかまわなかった。

 冷凍庫のなかには、あるはずのガリガリ君がなかった。僕はしばらく立ちすくんだ。正直自分にびっくりしていた。アイスがない。それだけで人はこんなにも絶望した気持ちになるのかと。たいして入っていなかったけれど、風呂から出たことで少し体が軽くなりさっぱりしていた。このままアイスを食べて、布団につけば、ろくでもない一日をリセットできる、はずだったのだ。

「なーに、どうしたの」

 僕が静止しているのに気づいたらしいさかえが、面倒そうに声をかけた。

「ガリガリ君が……」

 今日小学生がコミック本を買うのに図書カードを出した。図書カードの残額では足りず、残りはどうするかと訊くと、もってないという。図書カードから金額はすでに引き出してしまっていた。

 あのときの小学生が浮かべた、どうしたらいいのかわからないといった表情を、いま僕もしているんじゃないだろうか。

「ごめん、昼間に食べちゃって、コンビニいったときに買えばいいかなって思って。」

 悪びれもせずにさかえが白状した。なんならわたしのパピコ食べてもいいよ。

「そうなんだ」

 僕は冷凍庫を開けっぱなしにしたまま、答えた。下手くそな女優が怒りの演技をしているみたいだ、と自分を思った。

「明日買ってくるね」

「そうして」

 僕はそのまま自分の部屋に戻ろうとした。

「まーくん」

 さかえが僕を呼び止める。そして冷蔵庫のほうに歩いていった。

「なに」

「冷蔵庫、ちゃんと閉めた? ほら、音がなかったからもしかしてって思ったけど。だらしないなあ」

 さかえはそういって、冷蔵庫を閉めた。

 どのツラ下げていっているのかわからないことをさかえはいった。

 僕は冷蔵庫までもどり、冷凍庫を開けた。

「どうしたの?」

 さかえの質問には答えず、すぐ冷凍庫を勢い良く閉めた。想像以上に大きな音と、揺れに、僕は少し驚いた。

「なにやってんのよ」

 さかえの顔を見る気になれなかった。想像がつく。

「ちょっとコンビニいってくる」

 僕はいった。

 さかえは僕をしばらく眺め、いった。

「じゃあライジン買ってきて。ドライのやつ」

 僕は財布を手にした。

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