16 終りの季節
第31話 終りの季節①
荻窪駅から徒歩十五分。グーグルマップで確認しながら歩くのが苦手だ。指で地図を拡大するときの触感が嫌いだ。わたしはいつまでたっても嫌いなものばかりに囲まれている。成長しない。
夫はすでに劇場に到着しているらしい。
「懐かしいなあ、俺も昔はここでやったことがあるんだよ」
チラシが送られてきてから、眺めては何度も夫は話す。
「どんなお芝居をしたの?」
わたしはMacBookに視線を向けたまま訊ねる。
その日のうちに書き上げなくてはならない原稿があった。作家に訊く人生相談。「好きな人はわたしのことを友達としてしか思っていません。どうすればいいですか」
「忘れちゃったなあ」
夫は嬉しそうにいう。多忙ななか、麗しき(!)青春時代を思い出すことは彼にとって毎週通っている整体よりも癒やされることらしい。
記憶なんて、さっさと忘却の彼方だ。劇場に向って慣れない町を歩いている今日も、すぐにどこかに追いやられるだろう。そう思うことで、わたしは気を落ち着かせようとしているのかもしれない。
小さな看板。薄汚い雑居ビル。ほんとうにここで舞台をするんだろうか。通り過ぎてしまい、わりと歩いてしまったところで気づき引き返した。
わたしは恐る恐る足を踏み入れる。最近は仕事が重なっていて、家からしばらく出なかった。なんとなく化粧もこれで合っているのか不安になっている。だからか、人に声をかけるのを少しだけ躊躇させる。
黒幕の横の机に座っている男の子は、わたしを見て、いらっしゃいませ、と笑顔を向けた。こざっぱりとした、今風の男の子。主宰好みだな、と思ってしまった。
「予約していた向井です。先に同伴者がきていると思います」
わたしはいった。
むかい、さかえさまですね。男の子は名前の並んだ紙を眺め、わたしの名前を見つけて赤線を引いた。
「招待となっておりますので」
そういってチケットをわたした。
「お手洗いはどこですか」
「そこです」
手の先に、こじんまりとした扉があった。
「じゃあ荷物を置いてから」
わたしは黒幕の奥へと入っていった。
開演十分前だが、狭い劇場に敷き詰められているパイプ椅子に人はまばらだった。平日の昼だからなのか。座席は五十もないだろう。チケット二千五百円では儲からないだろう。
「こっちこっち!」
夫がわたしに手を振る。そんな大きな声を出さなくたって大丈夫だというのに。同期の前ではやたらと豪快ぶる。
「お待たせしました」
わたしはコートを脱ぎながら、いった。
「こんにちは」
夫の横にいた女性が挨拶をしてくれる。
「晴美さん、おひさしぶりです」
先月、晴美さんの出演した舞台を夫と観にいった。楽屋へ挨拶しにいくと、晴美さんは舞台の演出家であり彼女の夫の境さんと激しい口論をしていた。
「いつものやつだ。関わるとややこしくなるから今日は退散しよう」
夫はわたしに耳打ちした。わたしたちは踵をかえした。
「どうも」
晴美さんの横に、パートナーの境さんがいた。
「すごいですね、同窓会みたい」
わたしは彼らの同窓生ではない。
「うちらおたがいの芝居でしか会わないわよね」
晴美さんが笑う。
「まあそんなもんだろ。俺たちそもそもそんなに仲良くはないし」
境さんはいった。
「文伯座演劇研究所42期夜間部は、伝説の期なのよ」
「伝説ですか」
「おい、よせよ」
わたしが興味をもったのを夫は察知したらしい。
「そう、うちら、伝統ある文伯座のなかで最悪の期って呼ばれてるの。協調性がなくて、文句ばかりいって」
「俺を落とすような劇団なんだ。見る目なかったんだな」
「いうねえ」
晴美さんが夫の肩を思い切り叩く。
「たまに思うよ。もう一度研究所からやり直したいって」
晴美さんはステージを見ながらいった。
せまいステージにはなにも置かれていない。ただの真黒な空間だ。
「絶対俺はごめんだね」
夫がいう。
「あんな大変な時代になんて戻りたくはない」
今日も朝まで部屋に閉じこもり、夫はセリフを読み続けていた。小さく、ぶつぶつと。わたしはドアの前で、耳をすまし、夫の念仏みたいな声を聞くのが好きだ。夫と会話するよりも好きだ。わたしは下を向いて、少し笑った。
「文伯座に愛はないけど、俺たち同期愛はつよいからな」
「嘘つきなさんな。うちらがこんなに仲良くなったのって、卒業してからでしょ」
もう大変だったのよー仲悪くて。稽古以外一切口聞かないとかざらだったんだから。晴美さんはわたしに告げ口し、夫は素知らぬ顔だ。
文伯座の演出家である境さんが喉を鳴らす。
「来年アトリエで演出するから、俺の芝居はきてくれよ」
「なにやんの」
「ジロドゥ」
「この人、わたしが文伯座辞めたから『トロイ戦争は起こらない』をやるとか、ふざけんなって感じよね。アンドロマック、後輩のカトマイがやんのよ。もう本当に腹立つ!」
三人のいちゃいちゃを眺めるのは楽しい。
「お手洗いいってくる」
わたしは夫に声をかける。
「ん」
夫は頷く。
わたしは緊張している。
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