第32話 終りの季節②

「タバコ吸えます?」

 受付の男の子にわたしは訊ねた。

「ビルをでて、右のところに灰皿があります」

 吸ってくれるな、といわんばかりにスタンド型の灰皿は息を潜めていた。ライターに火がつかない。あの男の子、きっと吸わないだろう。火なんてもってないだろう。劇場に戻って晴美さんに借りようかと思ったところで、はい、といってわたしの目の前にビックが差し出された。

「ありがとう」

 わたしは緊張しながら、ライターを受け取る。久しぶりの再会だった。

「見違えたね」

 そういわれ、わたしは、そうかな、とだけ答えて火をつけた。

「旗揚げおめでとう」

 わたしは煙を一度ゆっくり吐いてから、いった。

「作演出出演ってすごいね」

「ノダヒデキだってマツオスズキだってしてるだろ」

「大物を例に出すねえ」

「大御所の一万分の一くらいのスケールだけどね」

「謙遜じゃない? 千分の一くらいでしょ」

 そんなだったらありがたいな、といってタバコを消した。

「出演前に一服とか、余裕じゃない」

 最後に会ったときから、七年分彼は老けていた。四十のおじさんだ。

「緊張しているんだ。十年以上ぶりだから」

「楽しみにしてる」

「ありがとう」

 そういって雑にタバコを潰した。

 そういって、ビルの裏に入っていった。

 わたしはぼんやりした。

 時間がわたしたちを、連れ去ったのか、導いたのか。同じ意味でしかなかった。

 ただ、わたしたちは、ここで再会した。一瞬の交差。

 夫や晴美さんたちは、過去と交差したいから、劇場に集まるのだろう。人生はなにかひとつのことをやり遂げるには時間が足りない。突き詰めることすら難しい。

 わたしたちはわたしたちの時間を生きる。同じ空間にいてもそれは、すれ違うことでしかない。でも、だからこそ、瞬間距離を縮めたい。虚しさをまぎらわすために、意味のようなものを見出したいために。そんなことだけではなく。

ただ、美しさだけをわたしたちは求めている。

 言葉も意味すら関係がない。

 野蛮に、貪欲に、無我夢中で。

 それだけだ。

 それ以上に素晴らしいもの、生きる意味のようなものを、わたしは知らない。

 芝居の看板を男が眺めていた。

 声をかけるべきか迷った。坊主頭になっているし、あの頃よりも精悍になっていた。でも着ているものが野暮ったい。色褪せたアウトドアパーカーなんて、こいつのイメージにそぐわない。なんだか別人みたいだ。

「もうじき、始まるよ」

 わたしは思いきって、いった。

 彼は、わたしのほうを振り向いた。驚いた顔をしている。

「僕にいってるんですか」

 きみ以外にどこに人がいるんだよ、とわたしは苦笑する。

「そう。入らないの?」

 夫の友人たちよりも彼は近しかった。数回しか会ったことがないのに、まるで戦友みたいに思える。あるいはライバルだったのか。そんな関係性、もう全部どこかにいってしまっている。

「芝居なんて観たことないし、こんなとこでやってんだなーって思って」

 なにをいってるんだか。なんだか自分が少しだけ若返ったような気になった。

「予約してないの?」

「いや通りがかっただけなんで」

「時間あるなら観てみたらいいじゃない」

 不思議そうな、というか不安げな顔をしている。

「新手の勧誘かなんかですか」

 そういわれ、この男はほんとうに別人なのかもしれない、とわたしは思った。

 わたしはじっと、彼の顔を見てみる。右目の下にある黒子の位置だって見覚えがある。

 やっぱり別人なんかではない。わたしは確信した。

「まもなく始ります」

 受付の男の子がやってきて、わたしに告げた。

 この、目の前にいる男がしらを切るのなら、それでもかまわない。

「わたしの友人が劇団を立ち上げたの。お客さんは知り合いしかいない。ガラガラ。でもね、面白いと思う。まだ観てないんだけどね。それだけは自信をもっていえる。時間あるなら、観ない? これナンパでも勧誘でもないから安心して。どうしてもね、いろんな人に、観てもらいたいの。料金、わたしが払うから」

 わたしたちは結局ひとりだ。

 この世に人間は、わたししかいない。

 わたしは自分と同じ場所に立っている、まったく違う世界を生きている男に、話しかける。

 あなたのことはなにも知らない。

 どうせ知ることはない。

 時間だけを共有している。

 それだけがすべてだ。

「じゃあ、観てみようかな」

 男はいった。

 なにかっこつけてんだか。

 わたしは狭い通路の端に立ち、彼を奥へと招き入れる。

 もうじきなにかはじまる。

 なにもかも、なんのきなしに、さりげなくいきなり。不意打ちのキスみたいに。

「早く早く、きっと、すごく面白いに決まってるんだから」


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