わたしはキタハラさんの作品には「心に穴が空いたような喪失感、欠落感」があると思っているのですが、今作も類に漏れず、いい意味で読者が置き去りにされていきました。
物語は続いているのに、わたしたちは手を伸ばすばかりで列車の手すりにさえつかまることができない。
そういう状況で物語がどんどんどんどん進行していく。わたしたちを引っ張って。
そこに早坂長太郎が現れる。彼は場を乱すけれど、物事を簡単にしていく。早坂長太郎に会った人達は彼に、彼のカリスマ性に大いに影響を受けて物語の続きを歩く。
結局みんな、どこに行きたいのか?
何者になりたいのか?
それは全員、叶ったのだろうか?
興味が尽きることは無い。
わたしはこの小説をお風呂で少しずつ読みました。読めば読むほど終わりが近づいちゃうことが悲しい小説は久しぶりでした。
「熊本くん」だけではなく、「キスをしても」も書籍化希望です。
もちろん、吉本さんと村上さんの棚に並べますよ!
なんでもない、淡々としたルームシェアの話なのかなと思ったけど、そこはキタハラさんの作品でした。
日常が進みつつもそこはかとなく漂う、不穏な気配。
ちらちらと姿をみせ、やはり山場は物語が収束する後半に一気にきました。この盛り上がりに向け全てが進んでいて、ぐいぐいと物語の世界に引き込まれていった。
物語が加速する流れに引き込まれて、まさにこの引き込まれるという感覚を感じれたことが何よりも良かった。
そのポイントは読む人によっていくつかあるかも。だけれど、追いかけても手の届かない相手の影を求めて重ねていく経験は誰にでもあるのでは。
自分の心の中の経験を引っ掻きながら、登場人物のつながりを応援して読みました。
(ただ、誰と誰がつながってもうまくはいかないような、心配をしながら読みました。)
そして、優等生キャラだと思っていた主人公の影の部分。
自分を保つためにか、彼ののらりくらりとしているようで頑固な姿勢がまたよかった…。キタハラさんは魅力的な、好きになってしまいそうな人物像をつくりだすのが上手いです。
読んだ後、主要人物の空白の時間やその後(最終話後)についてしばらく考えていました。
咳はそもそも一人でするもの、キスはそもそも二人でするもの。当該行為を〝しても〟一人になるのだったら、どちらがよりものがなしいか。そんなことをふと思う。
〝キスをしても一人〟――相手がいるからまだしもマシで、だけど独りなんて、滑稽であり、なお残酷だ。でもでも相手いるじゃん、という僻み根性に帰結してしまって己の薄暗い部分を前触れ無くスポットライトで照らされたようで嫌になる。いきなりドッキリカメラのターゲットにされた居心地の悪さよ。
物書きを目指す人にとってなんとも苦しい一作である。けれど主人公二人を追わずにはいられない。それは作者の物語る巧みさか。そして、行き着いた先には、思いがけず快い風が吹いているのだ。こんなのずるいなあ、と笑ってしまうほどに。
『日曜演劇家』の、あの人もあの人も出てる。あ、これって『熊本くんの本棚』のあの人じゃん……てな具合に、キタハラ作品がクロスオーバーする『キスをしても一人』。
「ちょっと他作のキャラを出してみたよ」って感じのゲスト出演ではない。(ショーケンは、ゲストっぽかったけど)きっと、著者の中に在る大きな世界から、それぞれの物語を切り出してきているのだと思う。もともとは一つの大きな世界や、大きな物語のうねりなのだろう。
何が悔しいって、それってワタシがやりたかった事じゃない? 関連性なさそうな作品群なのに、気がつけば一つの物語を形作ってました……って、それ、ワタシやりたかった事ですやん。
キタハラ作品を読むと、いつもこの手の悔しい思いをする。オカルト織り交ぜて再起の物語を描くって……それ、ワタシがやりたかった事ですやん。しかも、こんなに巧く物語りやがって……ほんと、忌々しい(褒め言葉)
忌々しさを噛み締めながら読むキタハラ作品は、噛むほどに癖になる味わい。もっとください、キタハラ作品……。
さて、まるで作品レビューの体を成していない事に気がついたのだけれど……もうキタハラ作品だからという理由だけで、本作をオススメしてしまいます。おそらくそれで、何も問題はないはず……。
演劇青年だった英二と小説家志望のさかえ、ふたりが暮らす部屋。
干支ひとまわり分の年の差のあるふたりは大学の同窓生。
前作の「熊本くんの本棚」とすごく良く似ている。
でも「キスをしても一人」の方がコンパクトにまとまりがあって、読後感も明るい。
キタハラさんの作品には舞台とそれを鑑賞する人がよく出てくる。
前作、熊本くんでも夢の中の舞台のシーンが印象的だった。
前作では舞踏、今作では演劇。
舞台の客席で語られる声はどこか心の奥深く、無意識から語り掛けられているような不思議な声だ。いや、全編を通して、語り掛けられているのか、語り掛けているのか、あるいは自らに語り掛ける誰かの声を聞いているのか、わからなくなる。これは前作の熊本くんにも特徴的だった。
創作する、演じることと、作者の距離がきっと近い。降ろして書くタイプの作家さんなのかな、とも思う。
前作の熊本くんのまとっている殻は固く、卵の殻のようだった。
松田くんは卵の薄皮のような皮をまだまとっている。
ふたりとも外に出ようとしている。殻を割って外の世界に出てこようとしている。そんな気がする。物語の中の、かれらの産声を聴いてください。それはもしかすると、あなたの声かもしれないけれども。
傑作『熊本くんの本棚』(まだ読んでいない人は読むべき!)で登場後、キタハラさんは『キスをしても一人』『ふめつのおとこ』そして現在連載中の『オールザサッドヤングメン』と短い期間で急速に進化しているように感じます。あらゆるエンターテイメントの題材を用いながら独自の世界観を読ませる文章で書き続けており、この更新ペースは生活に支障が出るのでは? と不安にすらなります。ファンとしては大変嬉しいことなんですけれど。
『キスをしても一人』は恋愛というジャンルのなかで縦横無尽にキタハラ節を炸裂! もう一切容赦ない。そして恋愛小説のなかで、人間の成長、諦めること、もう一度頑張ることが描かれています。描かれていないのに描かれている。こういうことを書けてしまう(書かないでも伝わってしまう!)作家のことを、多くの人に知ってもらいたい。
多くの書籍化された作家さんやプロの方が認める実力、読んで間違いはないでしょう!
はやく本にならないかな。
連載途中ですがレビューさせて頂きました。
このサイトには年長の読者も多いし、そもそも書き手にも、人生経験をそれなりに積んだ方が多いと感じている。
そんな人たちにぐっさり刺さる小説だと思う。
小説を書くことは自慰行為だという人もいる。
売れ筋を分析し、素材も書き方もクライアント(非常に漠然とした表現御容赦)に合わせて書く方々もいれば、この小説のヒロイン・さかえのように、自分の「作品」に固執して書き続ける向きもいる。
公募では後者の方が圧倒的に多いだろう。
だが、「いつか書くはずの傑作」にこだわるさかえは、誰よりも自分の作品を愛していないと感じる。
さかえだけでなく、彼女の同居人で元「表現者」の書店員・松田はさらに顕著である。
作品の最初で最大の観客は自分自身である。表現することは、自分自身を生き直すことでもある。
周囲の人々とそれなりに上手く関わる事の出来る主人公2人が、これからどう生きていくか。
表層的でない、いくつもの多層的な仕掛けがされた本作の今後が楽しみである。