第30話 キスをしても一人②

「早坂の墓前に挨拶をしたんだろ」

 僕はおでんのつゆをすすった。

「なんで知ってるの」

 さかえが訊ねた。

「カンだよ」

「そういうタイプじゃないでしょ」

 兜太がいったの? さかえの口から「兜太」という言葉がでても、僕はうまく、兜太だと認識できない。

「ほんとうに、カンだよ」

 さかえは問い詰めはしなかったが、不服そうだった。

 おでんはすぐに食べ終わった。

「なんかもの足りない」

 さかえがいった。

「クッキーあるよ」

「珍しいねクッキーなんて」

 座っていなかった椅子に置きっ放しにしていた紙袋を手に取る。しばらくさかえはじっと眺めていた。察したらしい。

「お母さんから」

「またのれん街で買ったのかな」

 あの人、東急のれん街にいると狩猟本能が目覚めるんだって。

 僕は笑った。嬉しそうにのれん街を歩いているさかえの母親を想像したら、かわいかった。

「いいお母さんだな」

 素直な感想だった。

「別に、普通でしょ」

「そっくりだよ」

「それ、一番ムカつくセリフだわ。昔から、わたしはなんとなく母親としっくりいってないからね」

「全然そんな風には見えないけど」

「うちら外面だけはいいんで」

 さかえが買ってきた缶コーヒー(僕はファイアで、さかえはジョージアだ)を飲む。

 なんでこんなに会話が弾まないのか。ああそうか、これまでずっと、さかえが僕に率先して話しかけてくれた。だからきちんと会話ができていたんだ。僕はいつからこんなに口が固くなってしまったんだろう。思い出せ。

「じゃあ、わたし行くね」

「うん」

 玄関まで僕は見送る。

 兜太とは付き合い続けることになったのか、僕は知らない。さかえの母親もなにもいわなかった。いずれどこかで知るだろう。世界は報告によって成り立っている。僕の耳に届かなかったニュースは、存在せずに息を潜め続ける。

 さかえが僕を抱きしめる。僕はさかえの背中を軽く叩く。ハグなんて、今生の別れじゃないんだから。白々しくないか。いや、きっとここで別れたら、次にあったときはもう、僕たちはまったくの別人なんだ。

 さかえは図に乗って喋らないことで、言葉を放っている。言葉を僕に完璧なかたちでは伝えない。そもそも、言葉自体が、こんなにも不器用なんだ。ずっと言葉を扱っていたから、たかをくくっていたのだ。

 僕とさかえは軽いキスをする。一瞬だけ。

 おでんもクッキーも缶コーヒーの味もすくい取ることのないキスをする。そして僕は、最後の務めを果たす。

「ありがとう」

 僕はいった。

 さかえが見上げた。

「なにが」

 さかえが鼻をすする。

「でもこれは初めてじゃないよ」

 僕は不遜なことを考えて、そして、素直に失礼なことをいおうとしている。

「なに」

「前に兜太が付き合ってた子と舞台でキスしたことがあるから、二度目だ」

 それを聞いて、さかえは心底呆れた顔をした。

「ぜんぜん面白くねーよ」

 さかえは目をこすり、そしてトートバッグで僕を叩く。

「まーくんは、いままであった人間のなかで一番つまんないよ」

「うん」

「足臭いし、寝起き囚人みたいだし、近眼で目つき悪いし、パンツ派手でださいし」

「うん」

「小説だって書いちゃいないし」

「うん」

「頭おかしいし」

「うん」

 さかえは僕を叩き続ける。

「アリサカとやってるし、そもそも買ったんでしょ、あいつを」

「うん」

「もう最低、ひどすぎる、キモい」

「うん」

「あんたキモいんだから、それ小説にそのまま書けばいいじゃない、さっさと書けよ、いますぐ書けよ」

「うん」

 さかえは蹲る。

 僕もかがむ。

「小説も書くし、それに」

 僕は別れの挨拶のかわりに、口にする。

 いま、やっとわかった。僕はなんだか、嬉しくなった。は、と声がでた。

 そうか。そりゃそうだよな。これがしたかったんだ。ああ、なるほど。

「笑ってんじゃねーよ、キモいんだよ」

 キスしたところで人間はひとりぼっちだ。なんの意味も、約束にもならない。

 たった一人のままで、明日へスライドしていく。

 目の前にいる、なにひとつわかりあうことのない他人に、僕は宣言をする。

 生きているあいだに、僕は何度も生まれ変わるんだろう。

 緊張しながら、はっきりという。

 僕はまだなにも始まっていない。

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