15 キスをしても一人

第29話 キスをしても一人①

 いつのまにか、隣の空いていた席に早坂長太郎が座っていた。

「別に待ってないけど」

 僕は舞台を観ながら答えた。

「仕事終わりに末廣亭で落語鑑賞とか、お前もなかなかセンス良くなったなあ」

「昔からきてるんで」

「へえ、初耳」

 そういって僕の持っていた定席番組表を取り上げて眺める。

「なんだ、ホンキー・トンク終わっちゃったのか。しかも今回講談はなしか」

 舌打ちの音。カンダハクザンってやつがいま人気なんだろ? 観てみたかったなあ。そういって表を僕に押し付けた。

「消えたんじゃなかったのか」

「まあ弟子の一大事だ。奇跡の復活ってやつだな」

「一大事ね」

「嘘だ。そんなに優しい人間じゃないってことはわかってるよな。昼に兜太がさかえちゃん連れて俺がいるってことになっている墓に報告にきたぞ。おかげで一瞬ブロック解除された」

 もう別になにをいわれたところで動揺することもない。

「そんなこと伝えるためにわざわざきてくれたわけか」

「おお、失礼失礼。リラクゼーションタイム中に。すぐ話は済む」

 拍手が起こる。次の出演者の準備が始まった。

「生きているやつってのは本当にわがままだな。思い出したり忘れたり、人を消去したりな。しかしこれでもう俺は完璧に過去の遺物となる」

 再び拍手。僕は舞台を観続けている。決して横を向かない。

「自分自身が消え去りたいと思っていたっていうのに、なんだろうな。虚しいよ。天国も地獄もなかった。ただ消える。一夜の復活を楽しみたいところだけれど、恋人たちのところへも行かず、無愛想な弟子といるしかいない悲しみといったらないねえ」

「好きなところにいけばいいじゃないか。ミチヨちゃんのところへでも行けば」

「そうはいかない。あいつはもう新しい人生を歩みだしている。いま顔をだしたら元のもくあみだ。昔の女に会いにいくなんて、自信を失った男のすることだよ。修行中のサイキック少年とあわよくばもう一回できないかなんて思ってわざわざ岡山まで会いに行くような愚かな真似はしないねえ」

「あんたどこまで知って、どこまで知らないんだよ」

「さあね。この会話と同じだよ。実際には会話していない。ブルートゥースで繋がってるようなもんだ。記憶が流れ込んでくるもんでな。見たかないよ。弟子のセックスの趣味なんて」

「本題は」

「お前、残念なことに長生きするぞ。こんだけ喫煙しててもガンにならん」

「そりゃどうも」

「なにもやりたいことがなくてただ生きていることなんてありふれたことだ。好きにすればいい。クソな親、自分の才能を理解しない老人、どうせやれない売れた友達を内心でいつまでもバカにするのも構わん。実際バカだしな。でもな、自分をバカにするな」

 笑い声。笑い声。笑い声。今日の演者は冴えている。

「これを機会に言語化してやろう。根幹で親に責任をなすりつけてんだろ。俺が一番嫌いなのはな、自分がうまくいかないことを親に植えつけられたどーだこーだっていつまでたっても責任転嫁してるやつだよ。つまりてめえだ」

 笑い声が次第に静まっていく。歪んでいく。

「親から受けたトラウマで片づけりゃ他人が口出しできねえなんて思ってるんだろ。つまんねえやつだな。一生ぐるぐる自分で作った輪っかを回ってろよ。ああすまんすまん。お前のことじゃないよ。いっぱんろんだ」

 脳髄に声がこだまする。

「懐かしいだろ、俺のダメ出し。セリフは相手を刺すつもりでいえ、相手がよこしたセリフには刺されるつもりで身を投げ出せ」

「早坂さん」

「誰かの席を奪おうとしたところで、奪えたとして、安心できると思うな。奪った席を、狙うやつが湧いてくるだけだ。すべての生物は同じだ。決して安定などできない」

「今日は真面目だな」

「狙われることから免れる方法はある。それをお前に特別に教えてやる。遺言だ。あ、でも俺もう死んでるから、なんだろうな、霊言ってやつか。シルバー・バーチか」

「なんだよそれ」

「お前が知らないことなんて腐るほどあるってことだ。一生学べよ。自分だけしか座ることのできない椅子を作れ、以上」

 会場が無音となった。時間が止まった。

「背中で見せてやれなかった俺を反面教師にすればいい。人間なんて生きているあいだは残念な例にしかなれないもんだな。死ぬまで新しいことを始められる。今日より明日のほうが美しい。すがれるものは、それしかない」

「なあ、あんたは本当は」

 僕はいう。僕は本当のことをいおうとしている。

「そうだ。俺は俺じゃない。どうせお前だよ」

 ういーあーおーるわん、ってやつさ。いつまでも、あると思うなトラウマと師匠だぞ。トラウマ引き裂いてからが本当の人生だ。ああ、前にそんなセリフ書いたなあ。なんだっけ。戯曲集出しときゃよかったかな。お前は門口にすら立っちゃいない。年をとっただけの皮かむりの餓鬼だよ。皮ズリは癖になるからな。痛かろうとしこらずにはいられないってか。親に捨てられて、それネタにセンズリこいて、あげく親代わりになってもらおうとしてた師匠にまで逃げられて。ざまあないな。いいか、これは反復だ。抜けられなくちゃ、またすがっている者に逃げられる。

 目が覚めた。

 休憩が始まった。

「すみません……」

 席を立とうとする爺さんが僕に声をかける。僕は立ち上がり、老人を通す。しばらくどうしたらいいのかわからず立ちすくみ、後半を観ずに僕は出た。


 リビングには段ボールが積み重なっている。

 明日、さかえの荷物が運びだされることになっている。昨日、さかえの母がやってきて、荷造りをしていた。

「ちゃんと挨拶できなくてごめんなさいね。不出来な娘ですみません」

 といって泉屋のクッキーを置いていった。三月までの家賃は払う、という申し出を僕は断った。僕も年内にここから出ることになっている。

 僕はソファーに寝転ぶ。風呂に入る気になれない。このまま寝てもいいかもしれない。朝には仕事にいかなくてはならない。あともう少しで、この家ともおさらばだ。

 なにもやる気が起きない。

 ドアが開く音がした。

「ただいま」

 さかえがコンビニ袋を提げて入ってきた。

「なにきてんだ」

 僕はいった。

「シューカンシに狙われてるから実家に引きこもり中じゃなかったのか」

「最後の晩餐しにきた」

 そういって、ビニール袋からおでんを取り出す。

「仕事で毎日作ってるよそんなの」

「ファミマじゃなくてセブンにした」

 僕たちは無言でおでんを食べた。

「まーくんは大根とたまごだけでしょ、食べるの」

 そういって、大根ばかり入っている容器をよこした。

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