第26話 言葉なんか覚えるんじゃなかった②

 二人とも無職。さすがにこれはいけない。さかえには仕事を辞めたことを伝えないまま一週間がたとうとしていた。リストラされたことを家族にいえないお父さんみたいじゃないか。僕はいつものように出かけ、いつもの時間に家に帰った。

「今日も出勤だったの? 連勤すぎやしない?」

 さかえに訊かれ、慌てた。いつもだったら休みの日まで出かけてしまった。

「神山が風邪ひいたみたいなんだよ」

 とっさについた嘘を、さかえは信じたらしい。

「最近流行っているからねえ。大丈夫? 一人暮らしなんでしょ」

 会ったこともない神山に同情し、うちにある風邪薬あげたら? などと会ったことのないやつの心配をしだした。神山は文句をいいながらも今日も働いていることだろう。

「彼女が看病してくれてるんじゃない」

 などと、ついた嘘に尾ひれを足してしまった。

「まあ、だったらいいけどね」

 最近のさかえはおかしい。ぼーっとしている。近頃は小説を書いている様子もない。おだやかである。さかえがこんなに落ちついているのを見るのはいつぶりだろうか。学生時代ずっとさかえは一人勝手に鬼気迫っていた。小説を書きたいという同級生たちは、わりとのんきにモンストに勤しみアニメばかり観ていた。提出ぎりぎりになって焦り出した。さかえはいつでも焦っていた。

 そうだった。ある作家の特別授業からだ。僕は思い出す。あのときさかえの作品は作家に絶賛された。「いきいきしている」とか「文章がみずみずしい」とかなんとか。あれからだ。誉められると逆に不信感を抱くタイプなのだ。賞賛の声を呪いと捉えて、さかえは生きているんだろう。

 それにしても、ずっと暇というのはなんと恐ろしいことだろう。自分で動き出さなくては、なにも始まらないらしい。職安で検索をしても、興味のわく職種はとくになかった。平日昼間の図書館の椅子に座って読書をしていると、ぼんやりしてくる。眠くなる。最近読むスピードが遅くなったような気がする。いつもだったら数時間で読み終わる軽めのミステリーすら、二日かかった。没頭できない。

 なんでもいいから働こう、日雇いでもいい、そう決めたとき、なら新しい仕事を始める前に、旅行にでも行こうかと思いついた。働いているあいだはどこかに行きたいといつも旅行ガイドコーナーを整理するたび空想していた。なのにいま、ここに行きたいという場所がない。


 新幹線に乗っているあいだ、ただ寝ていた。せっかく窓際の席だったというのに勿体ない。隣に座ったサラリーマンらしき男は、ずっとニンテンドースイッチをしている。あまりに熱中しているものだから、タバコを吸うために立ち上がることが躊躇われた。

 クニヒロに会ってみるのもいいかもしれない。そう思いついたら早かった。どうすべきか検討するよりも、動いてみることが大事だ。そう自分にいいきかせた。悪くないと思う。旅の目的がなければ、名所にいったところで迫りくる明日なき我が身に絡め取られるだけだった。

「へえ、あなたあそこの信者さんですか」

 タクシーの運転手がいった。

「そういうわけじゃないんですけけどね」

 僕は答えた。

「びっくりしたことがあったんですよ。ニュースにもなったんですけどね」

 ああ、どうでもいいことをえんえんと喋るつもりだ。面倒だ。

「ちょっと前にね、あそこの家がやっている墓所で、若い男が目を切られる事件があったでしょ」

「そうなんですか」

 運転手は当たり前だが前を向いたまま話す。内容のひどさと、そのわりにはあっけらかんとした物言い、そして目的地と関係があるらしいこと、すべてが混ざり、不穏だ。

「若い男の子だったんですけどね、なんで墓所にいったんだか、まったく無関係だったっていうのにねえ。山登りでもしようとしたのかねえ」

 犯人はいまタクシーが向っている家で働いていた男らしい。

「うさんくさい家だってみんな噂してるんですよ」

 正直近寄りたくないんで、手前で停めますね、と運転手はいった。タクシーから出るとき、「お兄さんも目ぇ切られないようにねえ」といわれた。不愉快だった。

 巨大な屋敷だった。正面まで壁沿いをいくら歩いてもたどり着けそうもない。相当な資産家なのだろう。ネットでもかなりあこぎな金儲けをしているらしいとあった。

 まるでカフカの人物にでもなってしまったのではないかと錯覚を起こす。門は見えているのに、いつまでも遠い。時空が歪み続けているのではないか。足が重くなった気がする。疲れているのかもしれない。新幹線の椅子をもっと倒せばよかった。

 門の前に、女がいた。よく見ると喪服姿だった。顔は、なんと形容したらよいのだろうか。誰かに似ているけれど、誰にも似ていない。まるで、僕を待ち構えているように、立っていた。

「あのう」

 僕は女にお辞儀をした。

「有坂邦裕くんの友人の、松田といいます。ちょうど近くに寄ったので、挨拶したいと思ったのですが」

「ほんとうに?」

 女は薄気味悪い笑みを浮かべた。

「はい……」

 本当の理由をいえなかった。そもそも、理由なんてなかったのかもしれない。無目的な旅を不安に思ったから、なんて理由にすらならない。

「申し訳ないですけれど、この家にアリサカクニヒロなんて人はいませんよ」

 女はまったく申し訳ないなどと思ってもいなさそうに、いった。

「ああ、そうなんですか」

 クニヒロのいる施設とは、ここではないのかもしれない。間違えたのか。無駄足だったのか。

「失礼ですけれど、あなたはそのなんとかさんに本当に会いたかったんですか?」

 女の言葉の意味がわからなかった。

「といいますと」

 僕は、訊ねたくもないのに、訊ねた。

「本当にそんな人、いたのかしらねえ」

「そんな……」

 突然なにをいうのだろう、この女は。すこし話しただけだというのに、なんでそんな人を食った拒絶をしてくるのかわからなかった。

「すみませんでした」

 僕は詫びたくもないのに詫びの言葉を述べ、引き返した。

「思うのですけれどね」

 女が僕の背中に声をかける。

「その方は多分、もうどこにもいないと思いますよ」

 わたしはね、ちょっとばかり未来を見ることができるんですけどね。あなたとそのお探しの方は、今生でなんの接点ももうないんでしょうね。

「そういう予言めいたことをいっていつも勧誘するんですか」

 クニヒロ、もしお前がこの家にいるのだとしたら、お前は大馬鹿ものだ。いてくれるな、頼む。僕は願う。

 僕は自分にできるありったけの嫌味を放ったつもりだった。女は顔色ひとつ変えずいった。

「わたしたちにとって必要のない人間を追い払うためにいうんですよ」

 あなたはこの家に関わる資格がないんでね。

 言葉は刃だった。

 こんなふうに、じわじわと、斬りつけてくる。

 僕は振り返ったことを後悔した。そして、歩き出す。

 そうか、そして、言葉というのは結局、暴力装置なのだ。

 人を揺さぶるもの。

 否応なく。

 言葉なんて覚えるんじゃなかった。

 詩人の言葉。

 美しくなくとも、どんな人間が発しようと、言葉は結局のところ言葉であるかぎり、人を斬る。 

 人を殺すために、言葉はきっと生まれたんじゃないだろうか。

 なぜかあの小説の最後を思い出す。ある作家の最後の作品だ。そういえば、僕は今日、誕生日だった。そして、その作家の死んだ日でもある。


 ここには何もない。記憶もなければ何もないところへ、自分は来てしまったと僕は思った。 帰り道は冬のぼんやりした夕日を浴びてしんとしている。

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