第10話 明日ってのは明るいもんなんだよ②

「松田さん、ちょっといい?」

 店長に呼ばれ、僕は事務所についていった。店長は僕より五歳若い。最近結婚したばかりだった。安そうなネクタイをしている。ネクタイというのは、生地は小さいというのに、値段がはっきりとわかるものだ。冠婚葬祭しかつける機会がない僕にすら、はっきりとわかる。

「実はさ、前に話していたことなんだけれど」

 店長はばつの悪そうな顔をしている。ああ、やっぱりダメなんだろうな、とわかっていたのでとくにショックでもなかった。

「はい」

 これから長々と説明されるにちがいない。この人は説明が下手だ。新人研修を横で見ていても、僕が横で補足しなくてはならなかった。春に入ったばかりの新人は、研修バッジを外すことなくやめてしまった。

「実はね、うちの本屋、別の店になることになってね」

 想像していたことの斜め上をいかれ、僕は思考停止した。

「そりゃそういう顔、するよねえ」

 店長は苦笑いを浮かべた。そんなコメントはどうでもいいから、いったいなにが起きたのかさっさと説明してほしい。


 店長の長い話を要約するとこうだ。

 この店舗はどこの本屋もそうだけれど、売り上げが年々下がっており、存続が危ぶまれていた。そんなときにある大手チェーン店が、店舗ごと買い取りたいと申し出た

 取次のすすめもあり、店の屋号を変えることになった。だからといってアルバイトの皆がクビになるとか、そんなことは一切ない。むしろ新しく入る店は昇給制度もあるし、いまのように社員が一人だけでアルバイトに負担をかけるということはない。なので労働環境は楽になると思う。

 レジのオペレーションは変わるけれど、それはきちんと研修もあるし、不安にならないでよい。

 話を聞いているあいだに、何度かレジが混雑して、呼び出された。事務所とレジをいったりきたりしながら、僕は話を聞いた。

「店長はどうされるんですか?」

 僕は訊いた。

「まあ、他の店舗に異動か、どこかに出航かな……」

 そういって困った顔をしていた。いつも困った顔をしているから代わり映えないともいえる。いや、いつもの倍、困っている。

「ついに松田くん、正社員?」

 話が終わり、落ち着いたところでレジにいる神山に訊かれた。

「ぜんぜん別の話」

 と僕はいった。個人の話じゃなくて、店全体の話みたいな。

「なんだそれ」

「話広げすぎて収拾つかなくなった少年漫画みたいな気分だよ」

「たとえがわかりづら!」

 僕も店長とおなじく、説明が下手だった。

 ともかく、社員登用どころの騒ぎではない。

 新しい経営側から新たなる社員が再来週には入ってくるらしい。

「引き継ぎが完了したら、看板を変えて翌日には新しい名前で店がはじまるそうで」

 店長にため息をつかれたなら、もうなにもいうことはできない。

「じゃ、つぎは神山くんに事務所へくるよういってください」

 話は終わった。


「どうするよ」

 神山がいった。

 店を終えジェイアールの駅に向かいながら、僕と神山は本日の重大トピックについて話をした。

「どうにもならないね」

 僕はいった。もうすでに決まったことである。アルバイトが反対を表明してどうにかなるものではない。むしろ気に入らないのなら、辞める以外に方法はない。

「のんきな店でよかったんだけどなあ、時給以外は文句なしの」

「時給も十円あがるらしい」

「本屋にしちゃ豪勢じゃん」

 神山はとくに辞める気もないらしい。大学を卒業するまで居座り続ける、といった。

「あれ、そもそも神山くんいくつだっけ」

「ハタチになったとこ」

「そうだっけ」

 あまりに堂々として、自然なタメ口なものだから、神山の年齢を忘れていた。むしろ自分と年が近いくらいに思っていた。

「なに?」

 僕がじろじろと神山の顔を眺めたものだから、神山はあとずさった。

「いや、ハタチには見えないわ、このふてぶてしさ」

 とはいったものの、たしかに肌質が僕とは違う、改めて、若い。

「世の中なめてるもんで」

 神山は舌をだした。別に大丈夫でしょ、新しくバイトはじめて、一から自己紹介だの職場に慣れるために愛想をいうだのすんのもめんどくさいし。俺別にこの店に就職したいとか思わないし。

「合理的だな」

 僕は感心してしまった。でも、神山の態度こそが、当たり前なのかもしれない。

「松田くんはここに就職したかったわけだから悩むかもしんないけど」

「別にそこまでしたいわけでもなかったんだけどね」

 暑いときにそんな事態になっても、真剣に物事を考えることなんてできない。南国の人々はどうやって重大事に立ち向かっているんだろうか。

 街の本屋の屋号が変わったところで、みな気にもとめないだろう。数ヶ月たって、人はやっと気づく。あれ? 前の店とちょっと変わった? とか。その頃には、僕も環境に慣れているし、過去のこととして流されていく。

「本屋なんてめんどくさいだけなんだけどね。客はなんでも知ってるだろみたいに『朝刊に広告がのってたやつくれ』みたくいってくるし」

「うろ覚えでいってきて、まったく検索してもわかんないようなやつとか」

「お前の今持ってるスマホで見つけてこいよな。本届くのが遅いとか文句垂れるならネットで買えよっていいたいね」

「それな」

 僕たちは結局いつものように、店にやってくる珍客の話をして盛り上がった。

 僕たちの横を、生きているようには見えない、生彩の欠いた中年男が通り過ぎていった。

「水木さんじゃん」

 神山がその男の背を見ながらいった。

 水木さんとは、うちの店にくる常連だ。水木しげるの描くサラリーマンみたいに、メガネで猫背の男だ。閉店前に現れ、店をうろつく。閉店するといってもなかなか店から出ようとはしない。ごくまれに、テレビ雑誌を買ってくれる。

「今日仕事、遅かったのかな」

 夜の街にいる水木さんは消え入りそうだった。

「店にこないでくれてよかったよ」

 神山は興味なさそうにいう。

「趣味とか大事だってあーいう人見ると思うわ」

 神山と僕は再び歩き出す。

「なぜあれを見てそういう結論導き出したんだよ」

「だってあれ、なんもいいことないでしょ。趣味もなさそうだし。人生死ぬまで生きるだけ、みたいな」

「趣味か」

「松田くんがいつも小難しそうな本読んでるのも趣味じゃん」

「もう趣味かどうかなんてわかんないけどなあ」

 最近彼女と一緒に、ボルダリングをはじめた、と神山がいったところで、ちょうど駅についた。

「明日ってのは明るいもんなんだよ」

 と、早坂はいっていた。子供たちがすくすくと成長していく姿を見る、父親の視線がそこにはあった。どうせ子育て奥さんに任せっきりで、都合のいいときに可愛がってるだけだろ、とか、そんなもの、子供が成長したらどうせ嫌われるだけだ、いまのうちに楽しんどけ、とかいってやってもよかった。実際内心ではそう思っていた。

 明るい? 明日が見えないのを眩しいと誤解してるだけなんじゃないか。口から出ることのなかった、否定的な言葉が、巡り巡って身体中にまわってきそうだった。

 渋谷駅に到着し、降りようとしたとき、ホームで待っていた若い女が乗り込んできて、僕とぶつかった。

「死ねよ」

 と声がした。振り向くと、女が僕を睨んでいた。ドアが閉まると女は右手の中指を立てた。

「死なねえよ」

 僕はいった。女には僕の声は聞こえないのだろう。女は僕を睨み続けていた。

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