二人の約束

 ミランとファウナが岐路を辿る。沈みゆく夕陽が雪原を緋色に染め、二人の影法師が長く伸びていた。


「ありがとうございました。わがままに付き合ってもらって」


 ファウナはあの後、しばらく動けなかった。魔法の力は万能ではない。意志の力を最大限まで開放すれば、当然、脳は疲弊する。


 とはいえ、しっかりと休息を取ったファウナの顔は晴れやかだ。


「いいよ。大事にならなくてほっとしている。ところで、生物の大型化についての疑問は解決したのか?」


「ええ。実証はできませんが、かなりの手応えを得たと思います」


 ふんす、と鼻息が荒い。


「もしかしたら、彼らは、放っておけばいずれ顕現化する〈影〉の本体に対抗するために大型化したのではないでしょうか。自分たちの世界を、自分たちの手で守るために。だから、攻撃的な特性を持つ個体ばかりが大型化したのでしょう」


 それは、確認した大型個体の唯一といえる共通点だ。セトゲイノシシ、魔犬、おおくち、カネオトシ、そして〈森の王〉。種族は違えど、みな捕食者だ。馬陸だって身を守るために毒を使う。


 だが、それなら――


「だとすれば、それを倒してきた俺は不味いことをしてきたのかな」


 ミランは〔神狩り〕として、その多くを討ち果たしてきた。もし、この世界が自衛のために彼らを用意したのだとしたら、それを屠ってきた自分は、この世界にとって都合が悪い存在になる。〔神狩り〕という名がこれほど皮肉に聞こえる日が来るとは思わなかった。


 顔を曇らせるミランに、ファウナが笑って答える。


「その時はミランさんが〈影〉を倒す役目を担っただけですよ。ふふ、ひょっとしたら、ミランさんこそが切り札だったのかもしれません」


「……どうしてだよ?」


 ミランが首を傾げる。


「だって、ミランさんは〔神狩り〕じゃないですか。神域より出る、怒れる神を諫める者。人間の暮らす世界と、神の暮らす世界を隔てる境界の守護者。考え方によっては、異世界だって立派な神域でしょう。〈影〉の侵略を食い止めるために、ミランさんを鍛える目的で世界が生き物を大型化させてたとしたら、ちょっと面白いですよね」


「大胆な仮説だな」


「仮説というものはそういうものです。まあ、結果として未然に防げたからいいじゃないですか」


「だな」


 ミランは誇らしげに頷いた。


 自分はただの猟師に過ぎない。由緒ある武家の生まれでも、特別な血筋を引いているわけでもない。けれど、そんな自分が世界を救う手助けができたことが、少しだけ嬉しかった。


「……ミランさん」


 真剣な声音。ミランは振り向かずに、なんだ、と声だけで答える。


「寒さが和らいだら、わたし、王立学院に戻ろうと思います」


「そろそろ一年経つしな。生態調査の報告もしなくちゃならないだろう」


 いえ、とファウナは否定した。


「それもありますが、一番はあの〈影〉のことです。もし、イール地方以外に生物の大型化傾向がある地域があるとしたら、ここと同じように、異世界との接合面がどこかに発生しているということです。それを放置してしまえば、あの〈影〉たちが顕現してしまう。それだけは避けなければなりません。学院に報告して、全域を調べられるだけの調査隊を組織してもらえるよう提案するつもりです。人類社会の存続に関わる問題です。学院側も博物学科がどうこう言っている場合ではないでしょう。

 ……ですが、仮に異世界との接合面を発見できるのも、切り離すのも、現時点ではわたしだけです。もし、わたしの身に何かあれば、世界を救う方法がなくなってしまいます」


「……それじゃあ」


「はい。魔法学科に移籍して、わたし以外の魔法使いでも空間を修復できる手段がないか研究しようと思います」


 ミランは言葉を失った。だって、それは、ようやく見つけた己の生き方を否定するものだったからだ。


 たまらずミランは立ち止まって、ファウナのほうを振り返る。


 その表情は憤っていた。ファウナにではない。ファウナを取り巻く環境に、もっと言えば彼女の運命そのものに。


「王立学院っていうのは、お前みたいに賢いやつがたくさんいるんだろう。魔法使いだって……なんでお前じゃなきゃ駄目なんだ。お前だけが犠牲にならなきゃならないんだ。お前は、ようやく自分のやりたいことをやるって決めることができたばかりなのに!」


「ええ、そうです。いつか、この世界の隅々を、わたしの庭だと呼べるほど知り尽くしたい。でも、だからこそ、わたしが行動しなくちゃならないんです。わたししか、いないんです」


「だけど……!」


 納得がいかなかった。理不尽すぎる。どうして、ファウナでなければいけないのか。他の誰かじゃ駄目だったのか。彼女が十六年の人生でようやく手に入れたささやかな望みさえ、この世界は容認しないというのか。


 ファウナは悲しげに微笑んだ。


「ありがとうございます。わたしなんかのために、そんなに怒ってくれて。でも、わたしは、わたしの好きなことができなくなることよりも、わたしの大好きな世界が壊れてしまうほうが嫌なんです。だから、行くんです」


「……もう、決めたことなんだな」


「はい。もう決めました」


 ミランは胸の中で燃える怒りを懸命に抑え込み、静かに目を閉じた。


 どうして、自分が怒っているのか。こんなに昂っているのか。自身の在り方には疑問を持たなかったくせに、どうしてファウナの在り方にはこんなに感情的になるのか。


 ファウナと出会った時に抱いた心の揺らぎ。結局、その名を知ることはできなかった。もう少しで、答えが出そうだったのに。


 だが、一番悔しい思いをしているのはファウナなのだ。そんな彼女が、自分の矜持を曲げてまで、その方法を選ばざるを得なかった。それほど、この世界を取り巻いている状況は逼迫しているのである。


 だからせめて、その決意に敬意を。


 ミランが最古の〔神狩り〕で在り続けるように、彼女もまた最新の賢者としての在り方を貫くと決めたのだから――


 ゆっくりと、ミランは瞳を開いた。


「……いつか、お前のやるべきことが終わって、お前がやりたいことをできるようになったら、ここに戻ってこい。まだ、ここは調べつくしていないだろう。ここをお前の最初の庭にするために、必ず戻ってこい。俺は、ここにいる。ここで待っている。いつまでも。俺の在り方は、ずっと変わらないから」


「はい。絶対に帰ってきます。ミランさんの待っている、わたしの庭に」


 ファウナはミランに一歩近づくと、踵を浮かせた。


 二人の影法師が重なる。その時間はほんのわずかだった。すぐに影法師は二つに分かれ、再び我が家を目指して歩き出す。


 もうじき春が来る。


 草木が息吹き、生き物たちが眠りから覚め、そして旅立っていく季節――


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