森の報復

 ミランの家を飛び出したフローラは森の中を走っていた。


 それはとても理知的な行動とは言えない。いくら神域との緩衝地帯で危険は少ないと言っても、それでも森は森だ。


 夕暮れ時のような見通しの悪い時間にうかつに近寄ることは避けるべきである。

そのくらい村の子供でも知っていることだ。


 しかし、フローラの胸中で荒れ狂う感情が理性を吹き飛ばしていた。


 ――間違っていない。私は、何も間違っていない!


 自身に言い聞かせるように、何度も繰り返す。


 自分は国に貢献してきた。新しい救荒作物だって開発したし、画期的な農法の構想だって持っている。戦争を減らすために努力を重ねてきた。


 なのに、どうして――自分だけが、前に進めていないと感じるのか。


 何よりも信じられないのはミランだった。自分と同じ戦争の犠牲者でありながら、その在り方はまるで真逆。


 諦めとも違う。忘却でもない。ただ、事実を受け入れてなお穏やかなのだ。


 そんなミランの瞳は、まるで戦争を根絶しようとしているフローラのほうが間違っていると突き付けられているようで居心地が悪かった。


 今のファウナと同じだ。いや、ファウナがミランから影響を受けたのか。


 解消できない混沌とした感情に突き動かされるまま、フローラは走り続けた。


 だが、もともと研究職だ。体力はあっという間に底を尽き、足が止まる。急激な運動で鉛のように重たくなった体を大樹に預け、息を整える。


「……何やっているんだろう、私」


 全力で体を動かしたことで激情は多少薄れたが、今度は情けなさで胸がいっぱいになる。賢人ともあろう者が、感情に突き動かされて行動するなど。賢人失格だと罵られてもしかたない。


 その時だ。


 ふと、頭上に影が差す。何事かと上を見る間もなく、フローラの全身をすっぽりと何かが覆いかぶさった。


「なにっ?」


 いきなりの出来事に声が上ずった。


 思いがけない事態にフローラの頭は真っ白になり、無様にも尻もちをつく。


 フローラに覆いかぶさったの裏側には無数の繊毛が生えいた。その先端には粘っこい透明な雫が滴っており、もがけばもがくほどフローラに執拗に絡みついてくる。あっという間に全身が拘束され、粘液まみれになってしまった。


「――っ!」


 思わず歯を食いしばる。衣服から浸透した箇所がひりひりと痛痒を訴えていた。この粘液が何らかの消化液であることは明白だ。しかし、衣服は何ともない。おそらくは動物性蛋白質だけに作用する分解酵素。


 つまり、こいつは――


「こいつ、カネオトシ……!」


 フローラは知識を総動員して、自らを捕らえたものの正体がある種の食虫植物、その捕食器官であることを察する。


 痩せた土壌、あるいは着生植物のように土壌以外の場所に根を張るものは慢性的な栄養不足に陥る。そのため、それを補う構造を備えた種が多い。その解答の一つが食虫だ。


 カネオトシは別種の樹木に着生する食虫植物である。ある程度成長すると葉を補虫器に変化させ、それを地面に向けて文字通り釣り鐘のように垂らす。


 普段はその釣り鐘状の捕虫器から漂う甘い香りで虫を誘導し、粘着性のある繊毛で捕らえて捕食するのだが、ただそれではとは呼ばれまい。


 そう、彼らはその呼び名が示す通り、その捕虫器を落とすからこそカネオトシなのだ。


 蛇のように熱源を感知できるのか、あるいは呼気に含まれる成分に反応するのかは不明だが、何らかの方法で獲物の接近を感じ取ると、維管束内の水圧を調整して補虫葉を自切する。そのまま補虫器は真っ直ぐ落下し、獲物に覆いかぶさって閉じ込めるのである。


 ただし、食虫植物として考えた場合、カネオトシの形態は不自然である。


 当然だが、補虫葉を切り離してしまっては、消化した獲物の養分を吸収することができない。動物で言えば胃袋を切り離すようなものだ。溶けた獲物はただ地面に流れてしまうだけで、遥か頭上に根を張るカネオトシは何も得ることができない。


 ならば、何のための捕食器官なのか。


「……なるほど、あなたは着生植物というよりも寄生植物なのね。自分が食べるためじゃなく、宿主に食べさせるための捕食行動ってわけか」


 寄生植物には宿主を大きくするという働きがあるという。それはより多くの栄養を宿主から吸収するためだ。人間が食肉のための牛や豚を肥えさせるのと同様に。寄生というよりも共生といったほうが適切かもしれない。


「でも、それにしたって……」


 フローラの狼狽ももっともだ。この大きさの食虫植物など前代未聞である。食虫植物はその名の通り、虫を餌にする。中には人間を襲うような大型の虫が存在するのも事実だが、それは複数の足で自重を支えることのできる多足類がほとんどで、大半の虫は小型種である。したがって、適応の形として大型化を選ぶのは必ずしも最適ではない。


 だが、この大きさは食虫ならぬ食獣の域だ。獣を狙わねばならないほど宿主に栄養が足りてないとでもいうのか。いくら着生植物が栄養欠乏を起こしやすいからと言って――


 そこで、フローラの脳裏にある仮説が閃いた。


 通常、植物が育つのに欠かせない栄養は土壌の表層から一尺ほどの深さまでしか存在しない。それ以上の層は硬く、根を広げることができないのだ。ちょうど、水田のトロトロ層がそうであるように。


 そして、土地の表層は雨で流されたり、風に飛ばされたりすることで容易に失われる。これを防ぐのが他ならぬ森林の役割なのだが、このイール地方の森は戦争の資源目的で伐採された経緯がある。地力が劣化していてもおかしくはない。


 それを補うためにカネオトシは捕食器官を強化したのではないか。自らの手で地力を再生させようとしているのではないか。他ならぬ、人間の体を資源として。


 もしそれが事実なのだとしたら、ぞっとする。


 それは自然が――世界が、人間の敵になったということなのだから。


「……ははっ」


 思わず笑いが込み上げる。くだらない妄想もそうだが、植物の専門家が植物によって殺されるなど滑稽にもほどがある。


「……ま、専門家といっても、凡才だけどね」


 フローラは自嘲した。確かに自分は植物学の専門家だが、単にそれしか適性がなかっただけのことだ。


 フローラが学問を志したのは戦争を無くすためだ。どんな学問であれ、戦争の数を減らせるのなら、何を学んでもよかった。よかったが――本音を言えば、自分こそ魔法学科に進みたかった。


 けれど、魔法には先天的な才能が不可欠で、自分にはその才能がなかった。


 できることと、したいことは違う。


 やるべきことと、やりたいことも違う。


 だから、自分の適性に応じた選択をした。できることで戦争を根絶するしかなかった。その手段が植物学だったというだけ。


 やりたいことは何が何でもやり遂げる性分だとファウナは言った。だが、本当は違う。自分は一番やりたかったことを最初に捨てざるを得なかった人間なのだ。だから、せめて自分ができることだけは切り捨てたくなかっただけ。


 なのに、ファウナは――自分が喉から手が出るほど欲しかった才能を持ちながら、それを活かそうとしない。それどころか、戦争の根絶にまるで役に立たない学科へ進んだ。


 許せなかった。自分は本当にやりたかったことを諦め、それでもなお誰かのためになる道を選んだのに!


 でも、そう。それは――


「わかっていたことなのよ。ファウナに嫉妬していたってことくらい。そして、ただ八つ当たりだったってことくらい……」


 ――自分がやりたいことを捨てて頑張っているんだから、お前も同じように頑張らなければだめだという、自分勝手な押し付けに他ならない。


 フローラの瞳から自然と涙が流れ落ちた。


 ファウナとて、自ら望んで魔法の才能を手にしたわけではない。やりたいこと、志したいことは別にあった。自分と同じように。


 ただ、自分の気持ちを偽ったか、貫いたかの違い。


 ファウナの迷いの晴れた顔。誰から何を言われようと揺らぐことのない、強固な意思。それを認めることができなかったがゆえの、幼稚な八つ当たり。


 勝手に期待し、勝手に失望した。なんて身勝手だったんだろう。


 自らの死を前にして、ようやく――フローラは戦争の妄執から解き放たれた。


「……ファウナを傷つけちゃったかなぁ。まあ、感情で物を語る愚か者には、お似合いの末路かもね」


 生きながら溶かされるのはどのような苦痛なのだろうか。でも、いいのだ。友達を傷つけた報いとして受け入れよう。


 そう覚悟して目を閉じると、どこかで声が聞こえた。



     ◇



「フローラ! いたら返事してください! フローラ!」


 ファウナの懸命な呼び声が森の中に響く。


 村人の情報では、森のほうへ走っていく姿を見たらしい。


 足跡を追跡するのはミランの得意分野だ。フローラが飛び出してからそこまで時間も経っていないので、かなりの精度で後を追うことができている。


 このあたりで途切れているので、近くにいるはずなのだ。しかし、姿は見えない。ただ釣り鐘のような大きな植物の一部が落ちているだけだった。


「……なあ、ファウナ」


 ミランはしばしの間、釣り鐘のような植物をじっと見つめ、口を開いた。


「もう、手遅れなんじゃないか?」


「何言っているんですか、まだ遺体も見つかってないのに!」


「森で死んで、遺体があるほうがおかしい」


 淡々とした、けれども、重い一言。


 森の中では誰かの死は誰かの生に繋がる。一つ死体が転がれば、獣が、虫が、目に見えないほどの小さな生き物が迅速に平らげるだろう。自らの命を明日に繋げるために。


「そもそも自業自得じゃないか。お前を傷つけた挙句、勝手に森の中に入っていくんだから。ここで死んでも、むしろ、せいせいするんじゃないか?」


「――いくらミランさんでも、フローラに対する侮辱は許しませんよ」


 ファウナにしては本当に、本当に珍しく怒気がこもった声だった。


 ぞわり、とミランの産毛が逆立つ。子供と変わらない小さな体格でありながら、そこから噴き出る重圧は、まるで飢えた野熊を思わせるほどだ。


 フローラの言葉が真実ならば、ファウナは魔法使い――現代で最強の兵器の一人。脅威としては十分に釣り合う。ミランは彼女が特別と謳われる片鱗を確かに感じ取った。


「……ごめんなさい。つい」


 我に返ったファウナは顔を背けた。圧迫感が嘘のように消える。


「でも、その言葉に偽りはありません。フローラはわたしにとって大切な友人です。彼女からどう思われようと、わたしは親友だと思っています。わたしを説得するために、わざわざこんなところまで駆けつけてくれた。わたしのことを真剣に考えて、苦言を呈してくれた。でも、大事な人だからこそ、わたしは自分の気持ちに嘘を吐きたくないんです。本当のわたしで向き合いたいんです」


 だって、と言葉を続ける。


「自分がされたら嫌じゃないですか。本音を言い合える親友だと思っていた人が、その実、わかったふりをしていただけだなんて……」


「……そうやって在りのまま向き合った結果、傷つけてもか? 傷つけられてもか?」


「もちろん。それくらい許してあげるのが友達というものだと信じています」


 その言葉に、ミランはやれやれとばかりに肩をすくめた。


「――だってよ。おまえも、もうちょっと素直になったらどうだ?」


 その言葉は、すぐそこにある釣り鐘の形をした植物に向けて。


 え、とファウナが呆けたような声を上げる。


「そこにいるんですか? その、釣り鐘みたいな?」


「学名とかは知らないよ。でも、ここいらじゃカネオトシって呼ばれている虫食い草だ。これまたでっかいなぁ」


 しげしげとカネオトシの補虫葉を眺める。


「……じゃあ、その中にフローラが?」


「無事だと思う。こいつ、消化するのに三日くらいかかるから」


「それじゃあ……いまの、聞かれてました……?」


「……ええ、残念ながら、ばっちりと」


 くぐもった声が鐘の中から聞こえた。


 ファウナが真っ赤になって顔を抑える。


「消化されてください! 記憶ごと! いますぐ!」


「……親友じゃなかったのか?」


 ミランは信じられないものを見るような目でファウナを見た。


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