失いかけたもの
カネオトシの捕虫器は文字通り鐘の形をしているが、獲物に覆いかぶさると逃さないように口の部分がきゅっと萎む。この状態になると鐘というよりは、花の蕾のように見える。
こうなった捕虫器が頑強だ。内側から力でこじ開けるには、フローラの腕力はあまりにもひ弱すぎた。
ミランは短刀で捕虫器にざっくりと切れ目を入れると、そこに指をかけて力任せに引っぺがす。
中にフローラがいる状態で、直接刃物を通して解体するのは危険だ。多少、時間がかかっても、こうやって強引に引き千切るしかない。
救助作業を開始してから一刻。やれ髪を引っ張るなだの、服がめくれて下着が見えそうになるだのと喚いていたが、ようやくフローラはカネオトシの中から抜け出すことに成功した。
助け出されたフローラの皮膚はあちこちが消化液によって炎症を起こしていたが、まったくの軽傷だ。命に別状はない。数日もすれば回復するだろう。
「よかった、フローラ……!」
目尻に涙を浮かべたファウナがフローラに抱き着いた。
「……ファウナ」
ぽつり、とフローラが口を開く。
「なんですか?」
「悪かったわ。あなたの気持ちも考えないで」
「……わたしこそ、ごめんなさい。あなたの気持ちも考えないで」
それから、二人して押し黙る。
「た、確かこの近くに農業用の水路が通っていましたよね。ちょっと、手ぬぐいを濡らしてきます!」
沈黙が照れくさくなったのか、ファウナは立ち上がると駆けていった。
「……あなたにも迷惑をかけたわね、ミラン君」
フローラはすっかりしおらしくなっていた。命の危機に晒されたのだから無理もないことではあるが、案外、勝気な性格は擬態なのかもしれない。
「別に気にしてないさ。ただ、備えもなしに森に入るな。森は優しくないからな」
森を支配する原初の法律。命を繋ぐためならば、あらゆることが容認される弱肉強食の理。その法の元、森はいかなる者でも受け入れるが、同時に誰にも肩入れもしない。人間だけが特別扱いされる理由はどこにもない。文明によって安全を享受している人類は、しばしば、その道理を忘れてしまう。
「……ええ。身をもって知ったわ」
「だがまあ」
ミランは背を向けると、頭を掻いた。
「言い換えれば生き延びたほうが勝ちだ。それが他の誰かの力を借りたものだとしてもな。お前が生き残ったことを森は認める。運がいいのも強さのうちだからな」
それはミランなりの励ましの言葉だったのかもしれないとフローラは思った。その不器用さが微笑ましい。
すると、
「――ミランさん!」
ばたばたとファウナが駆け戻ってきた。
「どうした。蛇でも出たか?」
「違います、でもこっちに来てください!」
ファウナはミランの手を引くと、引きずるように連れ去った。
「ちょっと、私もいるんだけど……」
フローラはよろよろと立ち上がり、後に続いた。
しばらく茂みの中を行くと、水路を流れる水のせせらぎが聞こえてきた。
それを抜けた先。細い水路の周りを淡い光がいくつも踊っている。天地が逆さまになったとさえ幻想する、地上の星空であった。
――蛍の群れだ。
ファウナが言うところの、グレンボタルであろうか。
「……なんだよ。蛍じゃないか」
ミランは拍子抜けした。危険な動物か、さもなければ珍しい動物でも見つけたのかと思ったが。
「なんだってなんですか! こんなにいっぱいいるんですよ! 信じられないです! うわあ、うわあ!」
ファウナは怒っているのか、喜んでいるのかわからないような声音で答える。そういえば王都には蛍が少ないと言っていた。ミランには当たり前の光景でも、彼女にとっては違うのだろう。
「これは……すごいわね」
同じく都会育ちなのだろう。フローラも目を丸くしていた。
とりゃー、とファウナは宙を舞う一匹を手だけで器用に捕獲すると、合わせた手のひらの隙間から中を覗きこみ、しげしげと観察する。
「すごい、蛍の光って本当に熱くない! 冷光ってこういうことなんだ! 博物誌に書いてあった通りです!」
そう言ってきゃっきゃと笑うファウナのはしゃぎぶりは、まるで新しいおもちゃを与えられた子供そのものだった。
「……あの子のあんな顔見ていたら、もう魔法学科に行けなんて言えないわね」
何かを諦めたような、静かな声。
きっと、それはかつてミランが思っていたことを、フローラも思ったのだろう。ファウナの太陽のような笑顔。それが失われてしまうのは、きっと辛いことだ。友達だからこそ、この輝きが陰ってしまうのは見たくないだろう。
「そう。あの子、あんなふうに笑うのよ。私たちからすればどうでもいいような、ささいなことで。それはもう嬉しそうに。そして、私はあの子の笑顔が好きだったはずなのに。どうして……それを忘れていたのかしら」
それほど、フローラは戦争が憎かったのだ。自分の兄を奪った戦争が。言い方を変えれば、それだけ家族を愛していたのだろう。
だが、やはりそれでも憎しみは何も生み出さない。それどころか、残されたものまで失ってしまう。失う前にそれに気づけたことが、彼女にとって一番の幸運なのかもしれない。
茫然と立ち尽くすフローラに、ミランが語りかける。
「……俺さ。〔神狩り〕だから、本当の意味での友達っていないんだよ」
「え?」
「〔神狩り〕は人間じゃないんだ」
森と人との調停者。古の信仰における神官に等しい。人が神を討ってはならず、神を討つために人に非ざる者を定義した。その末裔は、生物的には人であっても、文化的には人でないのだ。
同じ村に住んでいたのだとしても、村人とは住む場所も役割もまるで異なる。それがミランの――〔神狩り〕の現実であった。
「だから、お前たちが少し羨ましいよ。そうやって、対等な友人がいるんだから」
親も兄弟もおらず、胸の内をさらけ出せる友人もおらず。ただ、自然のままに生きて死ぬ。誰からも強制されたわけでなく、ただそれを善しとした少年。
なんと孤高で――なんと孤独な男だろう。
フローラは胸が締め付けられるのを感じた。きっと、ファウナが感じたのもそれなのだろう。この少年の在り方は、文明人にはあまりにも儚く映る。
文明の発展とともに失われた人間の本来の在り様。飛び交う蛍と同じだ。美しく幻想的だが――あまりにも脆い。開拓によって、その数を減らし続けている。そして、その文明を発達させるのは、ほかならぬ彼女たち賢人なのだ。
なんという傲慢。自分たちには、彼に同情する資格さえない。
「だから、大事にしてやれ。喧嘩するほど仲がいいとは言うが、女の子は笑い合っているほうが華やかでいいと思う」
フローラの内心など露知らず、ミランは気楽なことを言う。
「言われなくても……いや、言ってくれなきゃわからなかったか」
憑き物が落ちたようにフローラは微笑んだ。月夜に咲く、白い花のように。
「感謝しているわ、ミラン君。まさか、国家賢人が一介の猟師に何かを教わることがあるなんてね」
それからしばらくの間、三人は時間を忘れ、絶え間なく形を変える地上の星座を眺めていた。
◇
その翌朝のこと。フローラが朝食が並ぶ食卓できっぱりと宣言した。
「私、もうちょっとここに残るから」
「いや、王都に帰れよ」
間髪入れずにミランが突っ込んだ。
そのような圧政を、家主である彼が了承するわけがない。そもそもを言えば、昨日押しかけてきたことも完全に承服したわけではない。ただ、昨夜あんなことがあったせいで、そういうことを言う雰囲気じゃなかっただけだ。
「お前はファウナのことを認めたんだろう。だったらもう、ここにいる必要はないじゃないか」
ミランのもっともな意見に、フローラが苦虫を噛み潰したような顔をする。
「私にも面子があるのよ。ファウナを説得してくるって大見え切って出てきた手前、すぐに帰ったら格好悪いじゃない。実際、失敗しているわけだし」
「それはお前の都合だろうが」
まったくもって、ミランには関係のない話である。
「もちろん宿代くらいは払うわよ。さすがにそこまで不義理じゃないわ」
「そういう問題じゃない。俺は静かに生活したいんだよ」
繰り返すが、ミランは孤独であることが苦ではない。ファウナは興味が爆発した時はやかましいが、それ以外は理知的で物静かだ。だからこそ、折り合いをつけて一緒に生活することができる。
だが、これに自己主張の強すぎるフローラが加わったらどうなる。答えは言うまでもないだろう。
「ファウナも何とか言ってやれ」
矛先を向けられると、ファウナは困ったような笑顔を浮かべた。
「もしフローラが調査を手伝ってくれるなら、助かるんですよね。生態調査って最終的には人海戦術的なところがありますし、人手はあって困りません」
「ほら、ファウナもこう言っていることだし」
我が意を得たりとばかりにフローラはにんまり笑い、ミランはげんなりする。
「それにね、ミラン君。私を泊めることで、あなたにもちゃんと利益があるのよ」
「……どんな?」
「例えば――」
フローラが席を立ち、体を密着させた。ファウナには存在しないであろう、別格の存在感を持つ柔らかな二つの膨らみがミランの腕にむにゅんと押し付けられる。
「ほら、このような役得も。こんな美少女と一つ屋根の下で暮らせるなんて、人によってはお金を払ってでも実現したい状況よね?」
「――訂正。フローラ、学院に帰ってください。今すぐ」
底冷えするような声。ファウナの額に青筋が浮いている。ミランは昨夜と同じ重圧を感じた。
それを見て、フローラは邪悪な笑みを浮かべる。
「あら、焼きもち? 実に気持ちがいいわね。今まで私ばっかり嫉妬していたんだもの、これくらいやり返しても罰は当たらないわよね」
「嫉妬? わたしが? まさかですよ。だいたい、ミランさんがどれだけ鼻の下を伸ばそうとわたしには関係が――」
「だったら、私がどれだけ密着しようと関係ないわよね」
言いつつ、フローラはそれをさらに押し付けてくる。むぎゅむぎゅと。
がたん、とファウナが席を立った。
「風紀の問題です、風紀の! 無暗に殿方を誘惑しては、共同生活に支障がでるではないですか!」
ファウナはずかずかとミランのそばまで歩み寄り、反対側の腕を引っ張った。
フローラを引っぺがすのになぜミランの腕を引っ張るのかは謎だが、とにかくいつの間にか子を取り合う母親のような構図になる。
「やりたいことは何が何でもやり遂げるって性格なの、知っているでしょ。ここに居ると決めた以上、私はどんな手を使っても滞在するわ。だいたい、胸を押しつけたくらいで大袈裟なのよ。悔しかったら、あなたもやってみたらいいじゃない?」
「自慢ですか、自慢ですね! どうせ、わたしには押しつける胸なんてありませんよ! ええ、先にお腹のほうが当たっちゃいますとも!」
「……お前らなぁ」
きゃんきゃんと喚く二人の狭間で、ミランはすっかり消沈していた。きっと、疎遠になる前の関係というのがこういう感じだったのだろう。
女の子は笑い合うほうが華やかでいいとは言ったが、こういうのは華やかではなく姦しいというのだ。
友情は守られたものの、ミランの静かな生活は音を立てて崩れ去っていった。
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