第四章 完璧の仮面
夏至祭り
「……なに、この音」
どこからか聞こえる太鼓の音でフローラは目を覚ました。もう朝のようだ。
もうちょっとだけまどろみの中を漂っていたかったが、遠くから、けれどもしっかりと耳に届く太鼓の音色がそれを邪魔をする。
「もう、なんなのよ」
悪態をついて、フローラは半身を起こした。
襟元が冷たい。寝巻の襟が肌にぺったりと張り付いている。寝ている間に結構な量の汗をかいたようだ。申し訳程度に、ぱたぱたと胸元に風を送る。
確かに、昨夜は寝苦しい夜だった。夜風は吹かず、充満した湿気のせいで室内は蒸し暑かった。麦秋が過ぎ、雨季も来て、田植えも済んだ。もう初夏と呼ぶにはいささか無理があるだろう。夏の足音はもうすぐそこまで近づいている。
隣で寝ているはずのファウナはもういなかった。おそらく、朝餉を作っているミランの手伝いに行っているのだろう。
ファウナとフローラは同じ部屋で寝泊まりしていた。もともとは亡きミランの両親の寝室らしい。来客用の部屋など庶民の家には余分なものだ。相部屋とはいえ、屋根があるところで寝られること自体が有り難い。
おまけに、ここの家主は誰よりも早く起き、食事の準備までしてくれるというではないか。まったくファウナはいい宿を見つけたものだ。
「ごちゃごちゃ言われそうだし、着替えて行こうかしらね」
びっしょりというほどでもないのだが、それでも汗で湿った寝巻は肌にぴたりと吸いついてフローラの肉付きの良い体型を浮き彫りにしていた。見られたところでどうというものではないのだが、やれ風紀だなんだとうるさいやつがいる。
それに、朝っぱらから硬派な家主を困らせてもしょうがない。一応は世話になっている身分だし。
そう思って、衣装を収納している藤編みの籠を開けた。
「……あれ?」
そこで、フローラは小首を傾げた。
◇
結局、フローラは寝巻のまま台所を訪れた。
予想通り、ミランと割烹着姿のファウナが肩を並べて朝餉の準備をしている。
声を掛けるのも躊躇われる雰囲気。別に二人だけの世界だとか、そういう色恋の話ではない。無粋な一声で壊したくない、不思議な一体感がそこにはあったのだ。
当然ではあるが、ミランとファウナはまるで似ていない。性別による体格の違いはもちろんのこと、頭髪もミランは黒髪だし、ファウナは金髪。瞳の色も黒と青でまるで異なる。共通する要素は何もない。兄妹と言われても不自然だし、夫婦と言われてもしっくりこない。
なのにどうしてか、似ていると感じる。いや、違う。欠かせないといったほうが適切か。
例えるなら、剣と鞘。あるいは鍋に蓋。それとも濃いお茶に甘い菓子。それぞれの役割が違っても、それぞれの足りないところを補い、良いところを高め合って一つのものとして完成させている。
そういった意味で、この二人の組み合わせは面白い。これだけ違っているのに、どうしてこうもお似合いなのか。それはきっと精神性の類似によるものだろう。類は友を呼ぶというやつだ。
見事だと感心するものの、同時にフローラはちょっとした疎外感を感じた。二人で完成しているのであれば、ここにいる自分は何なのだろう。
もし、ファウナより先にミランと出会っていれば、あの場所には自分がいたのだろうか……などと空しい夢想をする。
「……これは駄目だな」
「……ええ、駄目ですね」
すると、ミランとファウナがしかめ面で鍋を覗きこんだ。
「……なになに。どうしたの?」
ありもしない空想を切り捨ててフローラが二人に歩み寄ると、ミランがおはようと口にしながら、箸で摘ままれた何かを見せる。
それは虫だった。大きさは一寸ほど。黒光りする細長い形状。胴体はいくつも節に分かれ、そこからたくさんの足が生えている。見ていて気持ちの良い外見ではない。はっきり言って、気持ち悪い。
それは箸で摘ままれた虫はぴくりとも動かなかった。もう死んでいるようだ。
「……
「いえ、似ていますけど、違います。これは
ファウナがやんわりと訂正する。昆虫と相関関係にある植物学を専攻しているとはいえ、種類や生態については動物学科のファウナに一日の長がある。とはいえ、その名には聞き覚えがあった。
「ああ、土壌動物の」
「そうです。朝食の準備をするためにお鍋を温めていたら、天井から落ちてきて、お鍋の中に入っちゃったんですよ」
「落ちた先が煮えたぎった鍋とは。そいつも災難だったわね」
その言葉を聞いて、ミランが嘆息する。
「俺たちも災難だ。おかげで朝飯が台無しだよ」
「え? そうなの?」
馬陸は普段、森林などのじめじめした土壌で暮らしている気性の穏やかな虫だ。落葉や菌類を食べ、その栄養を土壌に還元する分解者の役割を持つ。外見の気持ち悪さを除けば益虫と呼べる存在だろう。
ただし、完全に無害かと言うとそうではない。彼らは危険に晒されると身を守るために有毒の臭液を放つ。あくまで防衛的な能力で、百足のように積極的に攻撃はしてこないものの、その毒性は決して低くない。何せ、馬陸の臭液は狩猟用の毒にさえ利用されているのだから。
要するに、馬陸が墜落した鍋の中身はもう食べられない。朝餉はお預けということだ。
「そんなあ。ミラン君の蛇鍋、楽しみにしてたのに」
心底残念そうに、フローラが呻く。
「そりゃ俺の台詞だ。俺にして珍しく手間暇かけて下拵えして、おまけに味が染み込むように一晩寝かせたのに……」
抑揚こそ平坦ではあるが、その言葉には悔しさが滲み出ている。どれだけ蛇肉好きなんですか、とファウナが呆れ顔だ。
「新しい蛇を獲って来なさいよ。猟師でしょ」
「そんな都合よく蛇が見つかるかよ。しょうがない。ファウナ、朝はこの間交換した麦で粥を作ろう。……ところで、フローラ。なんで寝巻のままなんだ?」
フローラは指摘されて、ようやく自分がそのままの格好だったこと、そして当初の目的を思い出す。
「ああ、そうそう。ミラン君に聞きたいことがあったのよ」
「俺に?」
「私の下着が足りないんだけど、心当たりない?」
からん、と乾いた音が響いた。ファウナがおたまを床に落とした音だ。
「ミランさん……とうとう……」
ファウナが青ざめる。その瞳には失望の色が浮かんでいた。
「ミランさんも男の人ですから、一緒に暮らす以上、ある程度は容認するつもりではありました……が、下着泥棒は見過ごせません。立派な犯罪です」
「ファウナ。お前はいま、すごい勘違いをしているぞ。まずは話を聞いてくれ。というか、とうとうってなんだよ」
と、ミランが言ってもファウナは聞かない。
「言い訳なんて聞きたくありません。この家で、女性の下着を盗む動機を持った人間なんて、一人しかいないじゃないですか。確かに、ミランさんには気を遣わせてばかりでした。さぞ窮屈な生活だったと思います。抑圧された環境が犯罪を助長するということも、わかりきっていたことです。……でも、元を正せば、ここに押しかけたわたしの責任。ミランさんをそこまで追いつめていたことに気づけなかった、自分が情けない。だから、ミランさん。どうしても我慢できなくなったら、今度からはわたしの下着にしてください。わたしなら大丈夫ですから。だから、どうかフローラに迷惑をかけるようなことだけは……」
さながら強盗に娘を人質に取られた母親の懇願である。
「……おい、フローラ。紛らわしい言い方はやめろ。いま俺、すごい不名誉な誤解を受けてるぞ」
びっしりと脂汗を浮かべ、助けを求めるようにフローラのほうを見る。
すると、あろうことかフローラも沈痛な面持ちで、
「ファウナ……ここに残ると宣言した時点で、私も無関係じゃないわ。覚悟していたことよ。いつか、こんなことが起こるって。美少女って罪よね」
などと、ふざけたことをのたまった。
「自分で美少女っていうか、普通……」
「え? だって、可愛いでしょ、私」
さらり、と自信満々な発言をする。それを嫌味に感じないのは、フローラが本当に綺麗だからだろう。
フローラはこう見えて並々ならぬ努力家だ。自身の適性のない分野への割り切りは早いが、逆に自分にできることは何が何でもこなしてみせる。それが学業であれ、外見の美しさであれ、手の届く範囲で最大の努力をするのである。
女の社会というものは往々にして、フローラのように自信満々な態度は敬遠されるものであるが、彼女はそういう生き方をしているので、自分が積み重ねたものを自分で否定することだけはできなかった。それは傲慢ではなく自負だ。自分の在り方に負い目がない証拠だ。
だから、フローラは美人なのだろう。それはミランも否定しない。
しかし、それとこれとは無関係だ。ミランは今、フローラの一言で窮地に立たされているのだから。
「もう、いい。出ていけ、お前ら」
謂れのない中傷は、さすがのミランでも看過できないものがある。堪忍袋の緒が切れる寸前、フローラがちろりと舌を出した。
「ごめんごめん。悪ふざけが過ぎたわ。安心して、ファウナ。ミラン君はそんなことしないわよ」
「で、でも……」
「だいたいね、身内のものを盗んだところですぐバレるのよ。私もお兄様のおやつを黙って食べたことがあるけど一発でバレたわ。ましてや下着。隠し場所だって限られているんだし、ミラン君がそんな愚を犯すわけないでしょ」
「そ、そうですよね」
安堵したのか、ファウナが胸をなでおろす。こいつ、俺が言っても聞かなかったくせに……という顔でミランが睨む。
「じゃあ、外部の犯行でしょうか?」
「あ、それはないと思うわよ。私が否定したのはミラン君が盗んだって点よ。紛失した要因は依然としてミラン君にあると思うわ。だって、私の下着に触るとしたら、私か、ミラン君しかいないんだから」
ファウナの頭の上に疑問符が三つくらい浮かんだ。
「……よく探したのか? 俺はちゃんと畳んで籠に入れたぞ」
「ちゃんと探したわよ。それでもないから聞いているの。……ん、待って。籠ってどっちの?」
「右側の」
「あ、そっち? 今、そっちはファウナが使っているわよ」
「はあ? この間まで、お前が右側使っていただろう。ころころ収納場所を変えるなよ。しまうとき紛らわしいから」
「しょうがないでしょ、入りきらなかったんだから。っていうか、私のか、そうでないかくらい見たらわかるでしょ。どれだけ号数違うと思っているのよ」
「女の衣装籠を、そんなにまじまじと見るか」
「……畳んで? しまう?」
二人のやり取りについていけず、ファウナの首を傾げてばかりだ。
「俺が洗濯しているんだよ、こいつの服とか下着とか」
「……は?」
ファウナが目を点にする。
「フローラ、ミランさんにそんなことさせてたんですかっ⁉」
「だって、ミラン君のほうが洗濯上手なんだもの」
何がそんなに疑問なの、と言わんばかりの顔をするフローラ。
「男やもめに蛆が湧くっていうけど、あれ嘘よね。そこいらの女の子より家事上手よ、ミラン君は」
「いや、知ってますけど。伊達に一ヶ月ミランさんのごはん食べてきたわけじゃないですし。きっと、このお鍋も、馬陸さえ入らなければさぞや美味しかったでしょう……ああ、違う、そうじゃなくてですね」
「より適性のある人間に仕事任せたほうが確実だし、効率的でしょ。適性のない人間が頑張ったところで、適性がある人間よりうまくいくはずないんだから。役割分担すべきよ」
「その言い回しは微妙にぐさりと来ますが、それはそれです! 男の人に下着洗わせるなんて何考えているんですかっ!」
「別にいいじゃない、下着くらい。減るもんじゃなし。羞恥心で効率落としてもしょうがないでしょう。賢人だったら、浮いた時間を使って少しでも研鑽を深めることに全力を費やすべきだと思うけどね」
「賢人としての前に、一人の女性としてですね……」
「もー、ファウナはやかましいわねー」
本当にうっとうしそうにフローラは寝室に戻った。ごそごそと籠の中を漁る音が聞こえる。
「あったあった。本当にファウナの籠にあったわ」
フローラは探していたであろう下着をひらひらさせながら戻ってきた。
「わざわざ持って来なくていい」
「まざまざと見せつけられると殺意を覚える大きさですね……というか、見つかったなら着替えてくればいいじゃないですか」
「朝ごはん、麦粥になったんでしょ。できたての麦粥なんて食べたら、また汗かくでしょうが……あ、そうそう。さっきから太鼓の音が聞こえるんだけど」
「ああ、夏至祭りの準備だろう」
麦粥の準備を進めながら、背中越しにミランが語る。
「もう夏至なんですね。生態調査のために学院を発ったのが春。そこからしばらくはイール地方駐屯中隊でお世話になって、初夏のころにミランさんのところに転がり込んで……それからもう二月ですか。早いものです」
感慨深げにファウナが呟いた。
「へえ、農村のお祭りか。面白そうね。もちろん、行くでしょ?」
「わたしも興味があります。こういう催しは、あまり縁がありませんでしたし」
「来る日も来る日も研究、研究。国家賢人も楽じゃないわね」
意気揚々とした二人と裏腹に、ミランは何とも言えない表情をした。
「……ミランさん?」
「――ああ、いや。なんでもない。じゃあ、朝飯食ったら顔出しに行こうか」
そう言って、ミランは笑った。どこか作ったような笑みだった。
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