第一章 終わらない戦争
神狩りの少年
こいつはきっと変な奴だ。
猟師としての直感が、ミランにそう告げていた。
それは初夏の日差しが眩しい午後のことである。
ミランは薪割り台に腰掛け、穏やかに流れる雲をぼんやりと眺めていた。
その両目の下にはうっすらと
それもそのはず。村の田畑を荒らし回っていた巨大な野猪を仕留め、今しがたその解体を終えたばかりである。野猪を討ち取ったのは夜明け前だが、事前の準備を含めるとまる一日寝ていない。疲労困憊とはこのことだ。
早く小屋に帰って、思う存分惰眠を貪りたい。そんな至極当然の欲求がありありと浮かんでいる。そうしないのは、まだ彼の仕事が途中だからだ。
現在、村の女たちが総出で作っている猪汁。それを食べずして、ミランの仕事は終わらない。腹が減ったからという単純な理由ではなく、一種の儀礼的な意味で、だ。
もうひと踏ん張りだ、と大きく伸びをしたところで、
「わあ、これは珍しいですね!」
という、なんともご機嫌な声が耳に届いた。
気だるそうに視線を向けると、猪肉の臭みを取るために使った酒の匂いが充満する村の広場。ついさっき干したばかりの野猪の毛皮を、いかにも「興味津々です」といった感じで見上げている少女がいる。
年の頃は十二、三歳くらいだろうか。流れるような金髪と、まったく日焼けしていない肌が印象的だ。身に纏っている衣服も泥にも埃にもまみれておらず、能率一点張りの野良着とは異なり垢ぬけた意匠をしている。出で立ちからして農民ではないだろう。
トゥアールは人口が百人程度の小さな集落だ。ミランにとって、村人全員が顔見知りのようなものである。見覚えのない人間はそれだけで浮き彫りとなる。
加えるなら、トゥアールが属するイール地方は、レスニア王国において辺境中の辺境と言われるほど田舎だ。それはもうど田舎だ。領主が屋敷を構え、行政の中心である都市部はそれなりに発展しているが、それ以外は森と田畑しかない。個性的な名産品も観光名所もなく、流通も少ないため、余所者と言えば落人か傭兵崩れの盗賊と相場が決まっているのだが、少女はそのどちらにも見えなかった。真っ当な余所者は珍しい。
そういった事情も含めて降ってきたのが、冒頭の言葉である。
しかし、眠気を紛らわす程度には興味を惹かれたのだろう。彼は重たい腰を上げると、疲れた体を押して少女のそばに歩み寄った。
「おい」
ぶっきらぼうに声を投げかけるが、少女からの応答はなかった。視線は毛皮に釘付け。半開きになった艶やかな唇からは「ほほー」だとか「なるほどー」といった間の抜けた声が漏れるばかりだ。
「おいったら!」
「――わひゃあ!」
やや語気を強めて呼びかけると、少女は尻尾を踏まれた猫のような声を上げた。震える肩に合わせて、さらり、と金髪が涼やかな音を立てる。
ミランはやっと気づいたか、とばかりに嘆息する。
「す、すいません。何かご用でしょうか、お兄さん」
少女ははにかんで頬を赤らめながら、申し訳なさそうにミランに向き直った。
その姿に、ミランは思わず息を呑んだ。
輝く滝を思わせる黄金色の髪。磨かれた青玉のように艶やかな瞳。白磁の肌。ゆったりとした裾から覗いた手首や足首は折れそうなほど細かった。まるで精巧に作られた人形のように可憐な少女だ。
「……お兄さん?」
少女が怪訝そうに見つめてくる。
ミランは誤魔化すように咳払いをした。自分も他人のことをとやかくは言えない。
「そんなに珍しいのか、これが」
ミランは竹で組まれた物干しに垂れ下がった、畳二枚分ほどの広さに平面化した野猪を指した。採れる量で言えば牛一頭に匹敵するであろう毛皮は、なめし作業を終えたばかりであり、雫がぽたぽたと地面に滴っている。
「ええ、とっても。こんなに大きな個体は見たことありません!」
少女は小さい拳を握って、鼻息荒く答えた。
「そうだろうな。俺だって、こんなにでかいやつは初めてだよ」
昨夜のことを思い出したのか、ミランは苦笑いを浮かべた。
激闘の末に、どうにか野猪を仕留めたものの、その骸は彼一人では到底運びきれる重量ではなかった。仕方なく村人の手を借りて村まで運んだのだが、解体に要した時間も従来の比ではない。
「さぞや、名のある神だったんだろうな」
しみじみと語るミランの瞳はとても害獣に向けたものとは思えなかった。畏敬。憐憫。慈愛。そういった感情が複雑に入り混じった、温かな眼差しだ。
「……神?」
聞き慣れない単語なのか、あるいは動物に当てはめるには過ぎた言葉だと思ったのか、少女は怪訝そうに眉を寄せた。
「でかいだろ。そして、とても賢いんだ。村人の用意した罠なんか簡単に見破るし、田畑を柵で囲っても軽々飛び越えちまう。鈍重そうに見えて、脚だって人間よりずっと速い。こんな巨体に勢いよく突進されたら、どんな屈強な男だって一撃だ。現に、村の腕自慢が何人か大怪我しているしな。……まあ、そういう人の手に負えない獣のことを、辺境じゃ神と呼ぶんだよ」
それは旧い信仰の名残である。
森や山は幽世。人間がみだりに踏み入ってはならない神域であり、そこから現れる獣は神の遣い、または神そのものが姿を変えたものだと信じられていた。多くの場合は人間を律する荒御霊として。
荒れ狂う自然の暴威に対し、当時の人々はあまりに無力であった。多少は賢しかろうと人間は所詮、猿の延長線上の生物に過ぎない。下位の生物は、より上位の生物に食われるのは必定。だからこそ、人々は大いなる獣を崇め、奉り、そして畏れてきたのだ。
――かつては、だが。
「しかしまあ、どこから流れ着いたんだか」
ミランは腕を組んで、頭をひねる。
この毛皮の持ち主は、このあたりに生息している種ではなかった。猟師として独り立ちしたのは最近だが、幼少の頃から先代である父の手伝いをしてきたので、この土地に生息する動物については一家言ある。それを自負している彼でも一度も見たことがない。
「これはセトゲイノシシです。この国の生き物じゃありません」
「そういう名前なのか?」
「わたしも書物でかじっただけで、実物を見るのは初めてですが。この種の本来の生息地はもっと南の方なんですよ。だから、北国であるレスニア国内で見られるなんて思ってもみませんでした」
少女が珍しがっていた理由が、それだ。
少女は身を乗り出すと、毛皮の背骨が走っていた部分を指さす。
「最大の特徴は、名前の由来にもなっているこの背中です。ほら、見てください。背中の部分だけ体毛が硬質化しているでしょう?」
つられて、ミランも腰を屈めた。少女が指摘する通り、背骨を通る形で硬い体毛が束になっていた。形状としては棘というよりは鋸に近い。
「ああ、これか。確かに剥ぎ取る時、手に刺さりそうになったな」
「動物学的には針毛というのですが、これが頭からお尻まで断続的に束になっています。これは上位の捕食者から身を守るために発達したと考えられていますが、本来、猪は体毛の保護色によって周囲の風景に溶け込んで外敵から身を隠します。うりぼうのしましまがそれですね。ある程度大きくなると縞模様が消えてしまうのは、その時点で彼らの天敵が極端に少なくなるからなんですよ。しかし、セトゲイノシシが属する生物相で生き延びるためにはそれでは足りず、もっと直接的な防御手段が必要だったのでしょう」
つまり、本来の生息地にはこれを食うような化け物がいるということだ。恐ろしい話であるが、不思議ではない。
「猪は性的二形が顕著なので、大きさで判別できます。この立派な針毛から推察するに、これは
少女の問いかけの意図がつかめず、ミランは首を横に振った。
「交尾の仕方が特殊なのです!」
ぎらり、と少女の瞳に妖しげな火が灯った。
「水棲生物や昆虫を除いて、ほとんどの動物は雄が雌の背中から覆いかぶさるように行います。これは互いの生殖器を深く結合させることができることと、交尾中に外敵から襲撃された際、その場から迅速に離脱するためだと考えられていますが、見ての通りこの種は雌雄ともに背中に針毛を持っているので、同様のやり方では雄のお腹を串刺しにしてしまいます。――そこで!」
少女はその場に、こてん、と横向きに寝転んだ。
「このように体を横たえ、人間の性交でいう対面側位のような体勢で交尾を行うのです。他の動物では見られない、とても珍しい事例です。もちろん、この体勢でも素早く逃げるのは難しいので、繁殖方法としては悠長ですが、それだけ成体の彼らを襲う生物が少ないことの証明とも言えるでしょう。また、一般的に猪の繁殖時期は冬季とされていますので、彼らさえ捕食してしまう大型肉食動物……つまりは竜ですね。それらが既に南に渡っているのも関係しているのかもしれません」
横たわったまま身振り手振りを交え、セトゲイノシシとかいう野猪の生態について熱く語る少女。ミランは直感が正しかったと確信した。
だが、少女の言葉が面白かったのも事実だった。猟師として獲物と向き合う毎日を過ごしていながら、なぜ世の中の動物がそのような形をしているのか、その機能にどのような役割があるのか考えたことはなかった。これはそういうものなのだと決めつけて、思考を停止していた節はある。
「ふむ。身を守るために棘があるなら、全身に生えていたほうがより強固になると思うんだけどな。背中だけで足りるものか?」
「仰りたいことはわかりますが」
土埃を払いながら、少女は起き上がる。
「全身に棘があったら、交尾はますます難しくなりますね。さすがに仰向けでの交わるのは隙が多そうですし、あまりにも体格差があると雌を潰しかねませんしね」
自然界において天敵の関係性は絶対ではない。捕食者と被食者の入れ替わりは日常的に発生する。生物相の食物網は人間が想像しているよりはるかに複雑に入り乱れているものなのだ。たとえ生態系の上位に位置していようと、食われる時は食われる。
そう。常人では抗えない暴威でありながら、たった一人の猟師に討伐されてしまった、この渡来の神がそうであるように。
「でも、ひょっとしたら全身とげとげの猪も、
この世界のどこかにいるかもしれない全身棘だらけの猪を空想しているのか、少女の顔は楽しそうだった。
それにしても、年若い娘がさっきから生殖器だの交尾だのといった言葉を、輝くばかりの笑顔で、しかも大声でまくし立てている状況は心臓に悪い。
そろそろ周囲の村人の視線も厳しくなってきたので話題を変える。
「ずいぶん詳しいようだが、お前は賢者の卵か何かか?」
「……そのようなものですね」
「そりゃあ、すごい。小さいのに大したもんだ。俺なんて――」
読み書きもできないのに、と続けようとして、少女が硬直しているのに気づく。
読み書きもできない彼ではあるが、少女の顔にあからさまに不服と書いてあるのが見て取れた。
「これでも一応、十六歳です。……見えないでしょうけど」
重く沈んだ声。失敗した。元服した立派な女性だったようだ。実は同い年であるという事実は黙っておこうとミランは思った。
「……すまん。てっきり、まだ子供かと」
「気にしないでください。よく言われますから。ちっこいだの、ちんまいだの、つるぺただの……」
先ほどまでの輝きはどこへやら。目に見えてしょんぼりしている。この少女にとって、小さいとか子供とかいう言葉は、どうにも禁句だったらしい。
「……あー、なんだ。そんな生き物がどうしてこんな辺境に……渡り鳥のように、棲家を変える習性でもあるのか?」
何とか間を持たせようとまたも話題を逸らした。とりあえず、動物の生態を語らせれば機嫌が戻るだろう。短いやり取りの中から導き出した答えだ。
だが、予想に反して少女の表情は暗いままであった。いや、先ほどまでと微妙に違う。神妙な顔つきと言ったほうがしっくりくるか。
「……大戦の」
「え?」
「大戦の影響でしょう。戦時中は鉄を打つために各国で大規模な伐採がありましたから。棲家を追われ、餌を求めて旅するうちに、ここに辿り着いたんだと思います」
その言葉に、ミランは胸がざわめくのを感じた。
――大戦。
その言葉が何を指しているのか、答えは一つしかない。
大平原統一の野望を掲げる帝国と、反帝国連合による総力戦。大平原全土を巻き込んだ有史最大の戦争。数年前に終結したものの、その傷跡は今も各地に残っている。
「……そうか」
ミランは神の空蝉を眺めながら、お前もそうなのか、と小さく呟いた。
「……お兄さん?」
急に押し黙ったミランを不思議そうに見つめてくる。
「いや、なんでもない。ただ、可哀そうな奴だと思っただけだ。人間の都合で棲家を追われた挙句、こんな遠いところで俺に殺されたんだからな」
努めて穏やかに言ったつもりだった。できたかどうかは、少女にしか分からない。
「……お兄さんが、この猪を?」
「ああ。俺は〔神狩り〕だからな。あー、〔神狩り〕っていうのは、まあ、この猪みたいな神を討伐する猟師のことでな」
大いなる獣を神と畏れ敬っていても、農民は田畑を荒らされては生活ができない。畏敬の念と生活を天秤にかけ、人間の都合で神を殺めなければならない時、人々は〔神狩り〕を招聘する。
優れた狩猟技術を持つものの、飢えを満たす以外の目的で狩りをしない者。人間の身でありながら野生の掟を守り続ける者。森と人との調停者。その在り方は猟師というよりも神官に近い。
ミランは、そういう古代の狩人の一人であった。
「ということは、あなたはこの近辺で一番の腕利きなのでしょうか」
「……それはどうだろう。俺は見ての通り若輩だし、俺以外にも経験豊富な猟師は何人もいる。だが、〔神狩り〕の役目を継いだ者としての自負はあるつもりだ」
驕ることなく、されど卑下するわけでもなく淡々と事実を述べた。
「きっと、この出会いはこの神様の思し召しかもしれません。わたし、あなたのような人を探していたんです」
飾らない返答が気に入ったのか、少女はにっこりと微笑んだ。
「古き〔神狩り〕のお兄さん。どうか、あなたの知恵を貸してくださいませんか?」
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