異次元の影

 まるで、影絵の国に迷い込んだようだった。


「なんて、こと……」


 ファウナが呆然と呟いた。


 目の前で繰り広げられた光景は、国家賢人である彼女の理性を奪うほど、奇怪なものであった。


 ――〈影〉が泳いでいる。


 それが二人の常識の範疇において最も簡潔な表現だろうか。


 魚のような。あるいは虫のような。それとも鳥のような。いかなる形容も適さぬ名伏し難き生き物の〈影〉たちが、地面に、空中に、視界いっぱいに、いくつもいくつも浮かび上がっている。


 しかし、それらはすべて影だ。影としか表現しようのない平面だ。その本体はどこにもない。少なくとも、


「なんなんだ、これは……」


 陽光を反射して赤に、青に、緑に黒……可視、不可視を問わない極彩の偏光を見せる〈影〉たち。この世とは思えない光景に、さすがのミランも狼狽える。


「別の空間……いえ、こことは異なる世界と言っていいでしょう。そこと、ここが重なり合って存在しています」


 とんでもないことを、ファウナは口走った。


「別の、世界……?」


「ええ。ですが、まだ重なり合っているだけ。完全に結合したわけではありません。現状では、質量のあるものが通ることができないようです。その世界の影だけが時空の歪みを透過することができるのでしょう」


「こんなこと……普通に起こることなのか?」


 ファウナが乾いた声で笑った。


「まさか。異なる空間の結合なんて現象が普通に起こるならば、わたしのような資質がありがたがられるわけがありませんよ。ですが、原因には心当たりがあります」


「なんなんだよ、それは」


「大戦です。大戦末期、巨大な〈力〉と〈力〉が衝突する出来事がありました。詳細は公開規定に抵触するので話せませんが、おそらくは、その時の余波でこの周囲の空間が歪められたのでしょう。そして、異世界と繋がろうとしている……」


 異世界などと言われても、ミランにはピンとこなかった。この世界オーベルテール以外の世界のとなど想像したとことがない。神域や幽世といったこの世ならざる領域の存在は理解できるが、あくまであれは境界の概念。国境のようなもので、隔たれているが地続きであるものなのだ。


 地続きでないものが、繋がる。それがいったいどういうことなのか、教養のないミランでは想像することすらできない。


「もし、このまま完全に向こうと繋がってしまえば、世界は滅びかねません」


「……なんだって?」


 ぎょっとミランが目を剥く。


「向こう側の世界がどのようなものか、現時点では判別できません。灼熱の世界かもしれない。極寒の世界かもしれない。空気がないかもしれない。水がないかもしれない。仮に存在したとしても――我々にとっては有害かもしれない。そんなものと繋がってしまえば、この世界の常識は間違いなく崩壊します。もちろん、この世界と親和性のある世界かもしれませんが、希望的観測で判断していい状況ではありません」


「……止める方法はないのか?」


「あります。完全に空間が結合しきる前に、わたしが切り離します」


「できるのか?」


 ミランの問いかけに、ファウナは力強く頷いた。


「現状であれば、わたしの魔法で可能です。いいえ、違います。きっと、可能だからこそ、わたしはここに招かれたのです。……あなたと出会ったのは、本当に神の思し召しだったのかもしれませんね」


 その言葉に、ミランは腰に下げた筒から一本の矢を取り出した。


 その矢は半年前、セトゲイノシシを仕留めた時のものだ。


 あの夜、放った一本の矢。それがセトゲイノシシを仕留め、その骸がミランとファウナを出会わせた。


 そして、世界の危機を唯一解決できる人間として、この場に立っている。まるで、何か大いなる意思に導かれたかのような、運命的な符号の一致。


「ミランさん、下がってください。全力で、行きます」


 ファウナから発せられる燐光が輝きを増す。かつてないほどの輝き。〈森の王〉と対峙した時よりも遥かに強力な魔法を使おうとしている。


 ――と。


「何か……来る……」


 ミランの直感が、何かを告げた。


 その瞬間、ずん、と空間が震えた。


 歪んだ時空の向こうから巨大な気配が近づいてくるのを感じる。それは飢餓。あるいは殺意。それとも憎悪。この世のすべてを否定し尽くさんとする、禍々しい存在感。


 新たに映し出された〈影〉は、渡り竜に匹敵する巨体だった。


 その〈影〉はとある海洋生物に似ていた。無数に蠢く鱗の生えた触腕。花弁のように開いた先端から伸びる乱杭の牙。円筒状の胴体に象眼されたいくつもの眼球。この世のものとは思えないほどおぞましい姿。どのような推移を辿れば、このような生物が発生するのだろうか。


 あまりの光景に硬直する二人を、無数の眼球たちが一斉に見た。


 みしり、と世界が軋んだ。


「不味い、やつはこちら側を観測してしまった……!」


 我に返ったファウナが絶叫する。


 ミランは恐るべきものを見た。まるで空間を食い破るかのように、〈巨影〉が徐々に厚みを帯びていく。周辺を漂う〈影〉とは存在形態が異なるのか、あるいはファウナのいう観測が影響しているかはわからないが――ミランは本能的に察した。あの〈巨影〉はこの世界に顕現しようとしているのだと。


 ファウナは更に魔法の力を強める。だが、実体化しつつある〈影〉が楔となって、空間を完全に切り離すことができない。


「このままじゃ、不味い……!」


 ファウナはかつてないほど必死な形相を見せた。全力で空間操作に当てているので、何かしたくともできない。


 ミランが即座に矢を放った。正確無比な射撃は、しかし、空しく〈巨影〉と交叉した。すり抜けたのだ。物質と非物質の狭間である存在に、物体は干渉することができない。


「駄目か!」


「いいえ、もう一度お願いします! わたしがなんとかしますから!」


 ミランはもう一度弦を引き絞って、矢を放った。


 ファウナは矢の通り道に、ある種の歪曲場を発生させた。歪曲した空間を通過したことで、矢そのものが変質する。物質と非物質の狭間の存在となった異次元の矢は、今度こそ〈巨影〉に突き刺さった。


 空間を震わす咆哮。痛みに怯え、〈巨影〉は空間の奥に退いた。


「閉じろ――!!」


 その隙を縫って、ファウナが重なり合った空間を完全に切り離した。


 火を落とした幻灯機のように世界から〈影〉たちは夢のように掻き消え――元の銀世界が戻ってきた。


 がくりと両膝をついたファウナを、ミランが慌てて支える。精も根も尽き果たしたファウナは、ぞっとするほど軽かった。


「おい、しっかりしろ。ファウナ!」


「……安心してください、ちょっと疲れただけです。でも、やりましたよ。もう大丈夫です」


 ファウナは青ざめた顔で、けれど誇らしく微笑んだ。

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